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廊下に出たところで、緊急事態はさらに健太郎の膀胱をジワジワと膨らませる。もう一秒だって無駄にできない。
「あった。ギリギリセーフ」
ダムが決壊する寸前に用を済ませることができて、健太郎はほっと安堵した。
手を洗ってトイレを出ると、芳香剤の香りがまだ鼻の奥に沈着していて、そこに新たな花の匂いが混じってくるような感覚があった。
あの匂いだ──と思った瞬間、
「ボッチくん……だよね?」
と背中側から女の人の声がしたから、健太郎が即座に振り返る。
「あ……」
最初にカウンターで見た、あの若い女性職員がそこにいた。
「お姉さん、どうして僕のあだ名、知ってるの?」
少年の素朴な疑問に対して、彼女はもっともな表情をしてから、目を細めて微笑んだ。
「だってきみたち、あんなに大きな声でお話してるんだもん。お姉さんにも聞こえちゃったよ」
長くて黒い髪のあいだから小振りな耳がのぞいて、そこに小さな花の飾りが付いている。ピアスとかいうやつだなと、健太郎はちょっぴりドキドキしながら彼女を見つめた。
「きみたち何年生?」
「それって、プライバシーとか個人情報とか、知らない人に言っちゃいけないやつじゃないの?」
「こう見えても私、ここで働いてる職員なんだけどな」
「知ってる。さっきカウンターのとこで見たもん」
「じゃあ、知ってる人だね」
「そっか……」
顔見知りには違いないと思い、二人に何かしらの信頼関係が生まれた気がした健太郎。
「夏休みの宿題?」
「ええと……、ちょっと違うけど、だいたいそんなかんじ」
「なんだか懐かしい。お姉さんも小学生に戻った気分」
「お姉さんはどう見ても大人じゃん」
「そうだよね」
「結婚してるの?」
「どうして。気になる?」
「別に……」
そう言って健太郎は顔を赤くした。あからさまに「お姉さんに興味があります」と顔に書いてある。
「あのね、ちょっとお姉さん、困ったことがあるんだけど」
「困ったこと?」
「うん。それで、きみに手伝って欲しいの」
「だったらみんなも呼んでくる」
「だめだめ」
走り去ろうとする少年を足止めする彼女。
「恥ずかしいお願いだから、ボッチくんだけにやってもらいたいんだ」
健太郎は戸惑った。綺麗な女の人からの恥ずかしいお願いとは、いったいどんなものなのか。子どもの想像はすぐに尽きるけれど、会ったばかりの人物に興味を抱いてしまうのは、その相手の謎を解き明かしたいと思う『虫』が棲んでいるからだろう。彼女の名札にある『今井遥香』という名前以外は、何から何まで謎だらけなのだから。
それから数分後、健太郎と今井遥香は図書館の二階のとある書庫にいた。ドアの内側から鍵をかけて、外からは誰も入れない仕掛けもしてある。
「僕は何をしたらいいの?」
不思議そうな顔をして、健太郎が遥香に尋ねる。
「その前に約束して。これはお姉さんときみだけの、二人しか知らない秘密よ。いい?」
「うん……」
無言の時間がやって来ると、クマ蝉のオスの大合唱が窓の外から聞こえてきた。メスが鳴かないことを健太郎は知っている。
クーラーが効いているのにちっとも涼しくならないのは、体温とは違う熱のせいだろう。
花の匂いが一層つよくなる。遥香は制服のボタンを外してベストを脱いだ。
「暑いの苦手だから、ごめんね」
とことわる彼女には、すでに切なげな笑みさえ浮かんでいる。
「お姉さん、悲しいの?」
「どうして?」
「だって、泣きそうな顔してるもん」
その言葉の通り、遥香の両目は潤んでいた。
「じつは目の中にまつ毛が入っちゃったんだ。それをきみに取って欲しくて」
「いいよ」
そんなことなら朝飯前だと鼻を膨らませて、健太郎は年上の女性の瞳を覗き込む。まるで綺麗なものしか見てこなかったような澄んだ瞳が、真っ直ぐこちらを見つめ返してくる。
「優しくお願いね」
甘味料をたっぷり含んだ甘い声色で、小学生相手でも主導権を譲りたがらない遥香。こういう時でも大人げない自分が出てしまうことをよく知っている。
「どっちの目が痛いの?」
「うんとね、きみから見て左側の目。だから──」
「右目だね」
「うん」
そんな会話をしながらも、わかりやすいくらいに健太郎は動揺していた。もっと近くで見ようとして顔を接近させると、相手の顔のどこにどんな色の化粧が塗ってあって、唇がどんなに柔らかい素材で出来ているのかまでもわかりそうな気がした。
「まつ毛、入ってなさそう?」
「え……と、うん。なかなか見つかんない」
恥ずかしい気持ちを押し隠して、少年は一途に捜索活動をつづける。そしてここでようやく『恥ずかしいお願い』の意味を理解した。お姉さんが恥ずかしい思いをするんじゃなくて、僕が恥ずかしくなるっていう意味だったんだ、と。
二人の目線の高さがおなじなのは、遥香のほうが膝立ちをしているからだ。だから健太郎が下を向いたときには遥香の胸元の一部が見えるはずだったのに、それどころか彼女のブラジャーのカップそのものが視界に入ってきた。
これはいったいどういうことだろう。さっきまではシャツのボタンもきちんとしてたし、下着の存在にも興味がなかった。
それなのに今、目の前のお姉さんはシャツを半分脱いで、肌着を首のあたりまで捲り上げて、下着という一枚の薄い布を晒している。
その下はもう当然あたりまえの常識なら、エッチで裸でヌードな……お姉さんの……おっぱいがあるはずで……。
そうやって困惑する少年を楽しむように、遥香はシャツとキャミソールをゆっくりと脱ぎ落とす。くびれたウエスト、脇のあたりにできる皮膚の皺(しわ)、わずかに見える胸の円周までもが、限りなく白に近い肌色をしている。
「きみには何もしないから、もう少しだけお姉さんのお願い聞いてくれる?」
「まつ毛は、もういいの?」
「そっちはもう大丈夫になっちゃったから。ありがと」
そう言って遥香は健太郎の両手を掴むと、そのまま自分のほうへ引き寄せて胸に触れさせた。
ここまできたらどんなことが起こっても驚かないつもりで、健太郎は男の覚悟を決める。
「柔らかいでしょ?」
彼女の言葉に少年は赤面して頷く。ブラジャー表面の細かい刺繍やら骨ばったワイヤーのおかげで、手触りはザラザラとして落ち着かない。
けれども下着越しの胸の柔らかさといったら、水風船とかビーチボールの感じに似ていて、しかも生温かい。押した分だけ返ってくる。
「私、すごく肩がこってるの。胸のマッサージをすれば楽になるんだけどな」
「これって……、人助けになるよね?」
「それはきみしだいだよ」
室内の空気が動くたびに、贅沢な花の香りが漂ってくる。
この夏いちばんの体験となるに違いないと、健太郎少年は手に汗を握った。
*
つづく
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