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平日だと思って普段通りに出勤してみると、開館前にも関わらず、図書館のエントランスはたくさんの人で溢れていた。下は小学校低学年から、上はおそらく大学生までがほとんどだろう。
学校は今日から夏休みなんだ──と今井遥香(いまいはるか)は横目で彼らを確認しながら、職員用の出入り口から建物の中へ入った。
エレベーターで三階へ上がり、廊下を右へ折れたところに女子更衣室がある。ロッカーの中には夏物の制服の上下がかかっていて、遥香は少し汗ばんだ普段着を脱ぎ、それらに身を包んだ。
さすがに冬服よりも肌の露出が多いのはあたりまえだが、彼女はこの制服をとても気に入っていた。空調さえ二十八度に設定しておけば、暑くも寒くもなく、化粧くずれを心配する必要もない。
白いシャツに薄手のタータンチェックのベストを羽織るから、下着が透けて見えることもない。黒いタイトスカートの丈は短めだけれど、同性から嫌みな目で見られるほどの効果もない長さだ。スリットも標準に収まっている。
そして首に巻くチョーカーもできるだけフォーマルなものを選び、その日の気分で付け替えたりしてオシャレを楽しむ。
ロッカーの扉に付いた鏡に自分を映して、遥香はファンデーションを塗り直した。二十五歳の肌が少しだけ若返る。
「笑顔、笑顔」
独り言を呟いたあとで、営業スマイルを保ったまま更衣室を出た。
エレベーターで二階に下りて、正面のドアをくぐればカウンターに出られる。
「おはようございます」
早朝出勤の職員に挨拶をしつつ、遥香はカウンターへは出ずに、別のドアの鍵を開けて中に入った。そこは一時保管用の書庫になっていて、その内訳は、一般家庭から持ち寄られた古びた本や、各書店からの善意が詰まった書籍などで占められている。
彼女が歩くだけで、パンティストッキングとスカートが擦れる音が聞こえるほど静かな部屋。カーテンを開けて明かりを取り込むと、新しい埃がキラキラと舞った。
開館時間までの僅かなひととき、遥香はここで読書することを日課としている。机も椅子もないので、彼女はもっぱら立ち読みだけれど。
青春ラブストーリーもあれば、ミステリーなどの流行小説も網羅しているのだから、本好きの人間にはまさに楽園と呼べる空間かもしれない。
歩きまわる足が止まり、遥香は一冊の文庫本を手に取った。まずは口の中に溜まった唾液を飲み込んで、しおりのページをめくってみる。
いちどに数行程度しか読み進められない小説でも、内容の濃密さに圧倒されて、読み終わったあとにはいつもジェラシーのような感情が残るのだった。
昨日はどこまで読んだのか、少しだけ遡ってから脳裏でリピートし、つづきを音読した。外に漏れないくらいの、薄い声で。
「ソフィーはそのとき、ふるえる指先で彼の動脈を──夫以外の異性に求められるままに、香(かぐわ)しい肉体の表皮を湿らせる官能が──だめ──淫らな花園の奥深くから滴る、甘い蜜の糸と──貞操をもてあそぶように焦らされたり、ときには激しく突き上げられて舌を垂らし──私の体内で好き勝手に動きまわる快楽が、オルガズムの刻印をヴァギナに描いていく──あなたとどうなってもかまわない」
遥香は瞳を閉じて、はあ、と吐息をついた。ひどく喉が渇いて、バストがワンサイズ増えたのかと思うほど胸苦しい。
いつの間にか脚をクロスに組んで立っているのもいつものことだし、熱のこもった下着の中の局所局所が、ほかのどの部分よりも女らしい反応を示しているのがわかる。
ふとして壁の時計を見て、携帯電話の時刻も確認した。やっぱりこの部屋の時計は少しだけ遅れているみたい。
しおりを挟み直した本を元に戻すと、遥香は書庫を後にした。
*
「マサトくん遅いね」
約束の時間になっても現れない理人のことを心配して、萌恵は手首にはめたキャラクターの腕時計を見ながら首をかしげる。
「寝坊してんじゃないの」
「寝る前にゲームやりすぎて?」
「それはハカセだろ。マサトは勉強マンだからなあ」
健太郎と博士はさほど深読みもせず、リュックから携帯型ゲーム機を出して遊んだりしている。
「あ、マサトくん、来た」
萌恵の指差す方角から、野球帽をかぶった理人が全力疾走してくるのが見えた。クロックスをけたたましく鳴らしながら、まさかオリンピック選手の真似でもしているのか、ゴール地点では両手を万歳までして、最後はちっちゃくガッツポーズだ。
「マサト、遅いよお」
「余裕で遅刻してんじゃん」
「図書館、もう開いちゃってるよ」
三人からの有り難くない出迎えに、
「ごめん、ごめん。うちの姉ちゃんが変なこと言うからさあ」
と家族のせいにする理人少年。
「変なこと?」
「うん。この図書館てさあ、女の幽霊が出るんだってさ」
「幽霊?」
「都市伝説とかいうやつ?」
「私、トイレの花子さんなら知ってる」
「ただの噂だよ。いるわけないじゃん」
そう言って理人は、じつは半信半疑の中途半端な気持ちのままで、ほかの三人と一緒に図書館の中へ入っていった。
「天国う……」
「南国う……」
「北極う……」
建物内に踏み込んだ瞬間の冷気のシャワーを全身に浴びて、調子のいいことを言い合う男三人組。
「図書館の中なんだから、静かにしててよね」
と萌恵。学級委員には夏休みもないようだ。
各フロアの案内図には、まだ学校で習っていない漢字や英語などもいっぱい書いてあるのに、萌恵は気後れすることもなくそれらを理解した。
「新聞コーナーは二階にあるんだって」
スーパー小学生の萌恵を先頭に、おまけの三人がついていく。長く大きなエスカレーターが、小さな体を上へ上へと運んでいく。
「宇宙ステーションみたい」
「宇宙は無重力なんだぜ。エスカレーターなんて要らないよ、きっと」
「うん。空中に浮いちゃうもんな」
興味が尽きない四人もそろそろ二階に到着した。学校の体育館ほどもある広いフロアに高い天井、そこから見えるのは、本、本、本……。
これが全部コミックだったらどんなにいいだろう──と、つい思ってしまう。
ふと、カウンターに立っている女性職員と目が合って、理人がひょこっと会釈すると、彼女は微笑んで頷いた。
自分たちとどれくらい年齢が離れているのか、少年少女の物差しではまだまだわからない。母ちゃんよりは若いけど、姉ちゃんよりは年上だろうな──的な推理をする理人。
そんなことよりも、僕らにはやらなきゃいけないことがあるんだった。
彼らは読書スペースの一画を確保して、机の上に宝の地図をひろげるように新聞を見開いた。
「漢字だらけだ」
「読める漢字もあるじゃん。ガイコク……タメ……カエ?」
「外国為替」
と鼻を鳴らす萌恵、と理人。
ここ最近の学年テストの成績だけで言えば、一番が理人で、萌恵はずっと二番なのだった。バチバチと火花を散らしているのは萌恵のほうで、理人には火の気すらない。
「セ・リーグのところ見ようよ」
「せっかく来たんだしさ、ビジネスマンが読みそうな記事がいいんじゃないか?」
「そっか。社長になるには、まずビジネスマンにならなきゃだな」
納得した気分で新聞のあちこちに眼(まなこ)をめぐらせる、未来のビジネスマンたち。
「あれ?花の匂いがする」
理人が何かに気づいて横を向くと、さっきカウンターで見かけた女性がすぐそばを通り過ぎるところだった。花の名前までは思い出せないけれど、とてもいい匂いだ。
「化粧の匂いだろ。香水だっけ?」
「シャンプーとかリンスかもな」
「うちの安物のやつとは違う匂いがする」
それは理人たちが新聞デビューを果たしている最中ときどき、やはり彼女が近くを歩くたびに香ってくる。
年頃の男性らの視線はというと、漏れなく彼女の姿を捉えている。魅惑の香りというやつだ。
「俺、ちょっとトイレ」
スポーツ欄を見ていた運動神経抜群の『ボッチ』こと健太郎が、落ち着かない様子で席を立った。
「家でちゃんと出して来いよ」
「違うって。おしっこだよ」
トイレ、トイレ、と何回も口にしながら、健太郎は読書スペースを後にした。
カウンターに彼女の姿はなく、代わりに別の職員が立っていた。
*
つづく
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