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「外国の新聞も読んでみよっか?」
「英語はまだちょっと苦手なんだよなあ、俺」
萌恵と理人が手を黒くしながら新聞の銘柄を吟味していると、
「遅くなって、ごめん。トイレが混んでた」
と帰って来るなり言い訳をする博士。遥香と二人きりであんなことやこんなことをしているうちに、およそ一時間近くは経過しているはずだった。
「なに言ってるの。まだ五分も過ぎてないよ?」
自慢の腕時計をかざして萌恵が言う。
「それって本当?その時計、壊れてない?」
「ちゃんと動いてるよ。だって、ほら」
と萌恵が視線を向けた先には大きな掛け時計があり、それは間違いなく正確な時刻を指していた。萌恵の腕時計の時刻とも一致している。
「変だなあ。一時間くらい経ってると思ったのに」
「変なのはハカセだよ。そんなことよりさ、『子ども会議』はじめようぜ」
リーダーシップを発揮して、理人が新聞記事のひとつを指差し、
「今日は、これ」
とみんなに言った。
*
夏特有の気まぐれな通り雨が過ぎていった朝、理人と萌恵は湿った歩道を図書館に向かいながら、帽子の下でむずかしい顔をしていた。ついさっき、河合家の肝っ玉母さんから博士の様子を聞いたかぎりでは、その症状が健太郎のときとよく似ていたからだ。
「変だよな」
「変だよね」
「昨日はあんなに元気だったのにさ」
「ボッチくんの夏風邪がうつったのかも」
「ひょっとして……」
「なあに?」
「うちの姉ちゃんが言ってた、女の幽霊にでも遭ったのかな」
蒸し蒸しする沈黙がおとずれる。
「夜ならまだわかるけど、昼間に幽霊が出るなんて聞いたことないよ」
「だよな」
四人いたメンバーも理人と萌恵の二人になり、この企画は一時休止したほうが良さそうだなと理人は思っていたが、萌恵のほうは案外退屈している様子もない。
根っからの勉強好きな性格ももちろん、理人に対する特別な気持ちも少なからずあるわけだったりする。
小学生とはいえ、恋愛感情の芽生えは男子よりも女子のほうがずっと早く、女同士の共通の話題といえば『理想の男子の条件』などなど、大人顔負けである。
「さっきから人の顔ばっか見て、なんだよ?」
「べつに見てないよ」
二人は図書館のいつもの席に距離をおいて座り、いつもと違う雰囲気を察しながらも、それぞれの新聞に視線を落とす。
「ちょっとだけ別行動にしようか?」
理人が小声で言った。
「そうだね」
萌恵も同感のようだ。
少年探偵団て、きっとこんな気分なんだろうな──なんて勝手に盛り上がって、理人は建物内すべてのトイレに不審な点がないか捜査することにした。
一方の女探偵の萌恵は、この図書館に関連する事件や事故が過去に起きていないかを調べるために、視聴覚ルームの端末を使って古い新聞記事を検索してみようと思った。
二人が二人ともそれぞれに思うところがあるから、スーパー小学生の名推理が実を結ぶのも、もはや時間の問題と言えた。
「ここのトイレだけ、なんか匂うなあ」
二階にある男子トイレ……の隣の女子トイレの出入り口、そこだけ他とは違う特別な匂いがすることを理人は突き止めた。それはどこかで嗅いだことのある花の匂いだった。
「幽霊の匂いかな」
正体不明の香りは廊下にまで漂い、さらにそれを辿って進んで行くと、洋風なかんじの金具が付いた白いドアが目の前にあらわれた。プレートには『第四書庫』と表示されている。
おかしいな。『第四』なんて縁起のわるい数字、ふつう使うかなあ──と疑問に思いながら、理人はそのドアノブに右手を伸ばした。
*
端末の使い勝手がいいのか、それとも萌恵が賢いのか、どちらにしても探し物はすぐに見つかった。
二年前の七月二十日の朝刊に、図書館の女性職員が館内の書庫で倒れ、そのまま病院に搬送されたことが書かれている。何かの発作で気を失い、発見当時はかなりの高熱が出ていたらしい。
彼女のその後の容態までは記述されていないから、無事に回復して退院できたのか、あるいは最悪の結果になってしまったのか、そこまではわからない。
「今井遥香さん。二十五歳。この人の顔、どこかで……」
白黒写真の彼女の顔を凝視したまま、萌恵は顎に手をあてて考え込んでしまった。
「どこかで……」
*
「ここは一般の人は立ち入り禁止だよ」
突然の来訪者に驚く様子もなく、大人の彼女は柔らかい表情で小さな彼に告げた。
「すみません。間違えました」
「きみ、根室理人くんだよね?」
「え……?」
どうして名前を知ってるんだろう──。
「お姉さん、誰?」
理人の警戒心が彼女にまでつたわる。
「私は、今井遥香。ここの職員だよ」
書庫の床を指差しながら遥香は言った。もう片方の手には文庫本が収まっている。日課で読んでいる、女性向けの官能小説だ。
「理人くんは、ほかの二人と雰囲気が違うね。なんでだろう」
ほかの二人とはおそらくボッチとハカセのことだろう、と理人はすぐにひらめいた。
この女の人は何か知っている。ていうか、すべてを知っている気がする。
「僕の友達、健太郎と博士のことだけど、図書館に来た次の日に熱が出ちゃって病気なんだ。お姉さんは何か知ってる?」
正義のヒーローになりたがる理人の気持ちが、遥香にもよくわかった。わかった上で、答えをはぐらかすような微笑みで少年を見つめ返す。
理人は直球勝負で質問をぶつけてみた。
「お姉さんは、幽霊なの?」
我ながら寝ぼけたセリフだなと思いつつ、それ以外に言葉が浮かばない。
「ふふっ……。だったらどうする?」
とても好感の持てる笑顔が返ってきたので、理人は完全にペースを乱されてしまい、赤面した。
「健太郎くんと博士くんがしてくれたみたいに、きみも私とエッチなことしてみる?」
「……?」
「大丈夫。ただのお医者さんごっこだから」
そう言って遥香はうなじあたりを探ってシュシュをほどき、長い髪を左右に振り払った。
彼女のペースに流されちゃいけないとわかっているのに、魂を吸い取られる感覚というのか、いつまでも子どものままではいられない自分がいることを悟る理人。そして思いついたことがある。
「あの……、お姉さんのこと、写真に撮ってみてもいい?」
「もしかして、幽霊なら写真に写らないって言いたいんでしょ?」
「うん。いいよね?」
「それはいいけど、携帯電話もないのにどうやって撮るの?デジカメ?」
「知らないの?いまどきみんなこれで撮ってるんだよ」
と理人がリュックから取り出したのは、巷で流行している携帯型ゲーム機だった。どうやらこれにカメラ機能が付いているらしい。
ジュニア市場ももはや盗撮天国になりつつあるなと、遥香は背中にゾッとする悪寒を感じた。と同時に、それが興奮材料にさえなってしまう。冷たくて熱くて、どうしようもなく身体が疼く。
「撮るよ?」
「オッケー」
理人がゲーム機を操作した瞬間、シャッター音らしきメロディーが遥香の耳の奥で鳴った。
*
つづく
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