――第58話――
コトリの献身的な愛情がなかったら、きっとオレは堪えられなかった。
あの小娘がいてくれなかったら立ち直ることさえ、できなかったかもしれない。
「すぐにでも行こう。」
でも、オレにはコトリがいてくれた。
「いったい、どこへ行くんだ?」
オレには、あのおてんばで生意気だけど、なによりも大事でかけがえのない天使がいてくれたんだ。
シゲさんとは、病院で落ち合った。
シゲさんは肋骨を2本やられていた。
「だいたい奴らのアジトだって、俺たちはまだ掴んでいないんだぞ。」
大きな痛手を負った上に、なんの手がかりも得られていないシゲさんの表情は暗かった。
「大丈夫。」
対してオレは、希望の光を見つけて意気込んでいた。
「奴らの居場所なら、わかってる。」
シゲさんに向かって、自信満々に言い切った。
「わかってるって、お前・・・。」
そうさ・・、オレにはコトリがいてくれて、あのやんちゃなおてんば娘がしっかりと見つけてくれたんだ。
『これ・・・なに?』
朝になって、実家へ向かうためにベッドから出ようとしたときだった。
ベッドの下に転がっていたオレのシャツをコトリが拾ってくれた。
甲斐甲斐しく奥様気取りでオレにそのシャツを着せようとしたところでコトリがシャツの胸ポケットに一枚のメモ紙が入っているのに気がついた。
そんな紙切れにオレは覚えがなかった。
紙片に書かれた文字を目で追った。
どうやらどこかの住所のようだった。
都道府県名は、青森から始まっていた。
これは・・・。
どうしてこんなものがポケットの中に入っていたのかわからなかった。
考えているうちに、ふと、思い出したことがあった。
そういえば、夕べナイフ野郎と闘っていたとき、奴が軽く胸を突いてきた。
ナイフの切っ先を腹に押し当てていたにも関わらず、奴は軽く胸を突いただけで、刺してこなかった。
あのときだ・・・。
確証はなかった。
だが、確信はあった。
おそらくこの住所は、シホの連れ去られた場所を示しているのに違いない。
思えば、あのナイフ野郎は初めから妙だった。
闘う意志がまるで見られなかった。
シホとコトリを奪うのが目的だったはずなのに、奴はそれをしようとしなかった。
きっと、なにか事情があったのだ。
罠とは思わなかった。
オレたちをわざわざ向こうにおびき出す理由がない。
だとすれば、これはシホのいる場所を示していて、それはつまり、奴らのアジトを教えていることになる。
「そこに、シホがいるっていうのか?」
「ああ、たぶんね。だから、今すぐにでも青森へ向かおう。」
コトリが見つけてくれなきゃ、今頃あのメモ紙は洗濯機の中だ。
ケータイでさえ2回も洗ったからな。
たぶんオレだけなら、あんな紙切れに気付くことはなかった。
コトリが希望の光を見つけてくれたんだ。
やっぱりアイツはオレの天使だぜ。
病院へ来る前に、レンのマンションに立ち寄ってGTRは手に入れていた。
行こうと思えば、すぐにでも出られる態勢にはあった。
「一日だけ待て。」
逸る気持ちを諫めるように、シゲさんが止めた。
「どうして?」
「オレはこんな様だ。戦力になるとは思えん。無論、同行はする。だが、いざというときに役に立てそうもない。だから、代わりの戦力を用意する。」
「代わりの戦力?あの陸上自衛官さんたちのこと?」
彼らが一緒ならば心強い。
「いや、明日から市の防災訓練が始まるから、彼らを頼ることはできない。」
防災訓練?
「ねえ、シゲさん、どうしてあの人たちは夕べオレたちの味方になってくれたの?いったい、彼らは何者なわけ?」
アパートを出たときには、すでにふたりとも出勤して車はなかった。
お礼を言いたい気持ちもあったが、まず彼らが何者なのか知りたかった。
「やっぱり、あのふたりはシゲさんが?」
偶然にしてはタイミングがよすぎた。
しかも、あのふたりは、あらかじめ襲撃を予測していたかのように、あの状況下でも動じた気配がなかった。
何より、彼らはシゲさんの名前を知っていた。
タカの知らないところで、目の前にいる銀縁眼鏡の男は、またなにか別の策を弄していたのかもしれなかった。
「もしものときのための保険として彼らに住んでもらっていたんだ。できれば、こんな形で活躍して欲しくはなかったんだが、おかげで最悪の事態だけは回避することができた。」
やっぱり。
あのふたりは、シゲさんの隠し球だったわけだ。
最悪とは、コトリまで奪われてしまったときのことをいっているのだろう。
しかし・・・ほんと、このおっさんは色々やってくれるよ・・・。
「どうしてシゲさんは、あんな人達を知っているの?」
シゲさんに警察関係者の知り合いが多いのはわかっている。
彼は剣道の教官として警察と深い関わり合いがある。
だが、自衛隊と海上保安庁では、シゲさんとの接点が思い浮かばない。
「彼らは市の防災危機管理対策委員会のメンバーだ。それぞれのセクションから連絡官として派遣されているのを俺がスカウトした。」
「防災危機管理対策委員会?」
「ああ、災害時に市民を避難させたり、救出するための対応を協議する部署だ。彼らは市と連携して各々の所属組織の運用について意見を提出するアドバイザー的役割を務めている。」
あ、だから防災訓練があると自由になれないんだ。
「でも、どうしてそんな人達が、あのアパートに?」
あそこはオレも含めて、最強の公務員宿舎。
「自衛官の彼はレンジャー隊員で、海保の彼は元SST、つまり特殊警備隊の隊員だ。どちらも格闘術を学んだエキスパートなので、いざというときのためにお願いして、あのアパートに住んでもらっていたんだ。」
「なんていったの?」
「2階に住む親子をバカなヤクザどもが脅しに来るかもしれないから、そのときは追い返してくれって、頼んだのさ。」
「へえ、でも、そんな理由だけでよくあそこに住んでくれたね。」
「家賃をただにしたからな。」
「え!?なにそれ!?」
「あそこは野呂課長のお父さんが経営しているアパートなんだ。」
「え!あのジイちゃん、野呂課長のお父さんなの!?」
「知ってるのか?」
「そりゃあ、大家さんだからね。ものすごく礼儀正しいジイちゃんでしょ?」
「ああ、今は引退されてるが、元は剣道の師範で全日本を7連覇した豪傑だ。」
7連・・すげっ!高確パチンコ並みだ!
「あの方はあの辺りの大地主さんでもあってな、アパートやマンションなんかを手広く経営してらっしゃるんだが、お前たちの住むあのアパートだけは近々壊す予定だったらしく、野呂さんに相談したら、ただでいいといってくれたので、それで彼らに住んでもらってたわけさ。」
マヂ!?
オレなんて6万近く払ってるよ!
ってか、あのアパートなくなっちゃうの?
「ところでさ・・・。」
シゲさんの話を聞いているうちに、どうにも引っ掛っていたことを訊いてみることにした。
「もしかして、野呂課長って、シホたちのことを知ってるの?」
今の話もそうだが、これまでの話を聞くかぎり、どうにもあの課長が今回の件に一枚噛んでいるような気がしてならない。
「なぜ、そう思う?」
シゲさんの表情は変わらなかったが、含みのある言い方ではあった。
「はっきりとはわからないけれど、シゲさんは野呂課長の存在をなぜか隠そうとしていたよね。たとえば今の話だってそうだし、それに、シゲさんたちの先生が野呂課長だったってこともオレに隠そうとしていたでしょ。それってどうしてなの?」
シゲさんは、野呂課長との繋がりを隠そうとしていた。
それは間違いない。
しかし、なぜそこまで隠そうとしたんだ?
それが聞きたかった。
シゲさんが短くため息をついた。
「ここまで来たら隠しても意味がないから洗いざらい教えてやるが、絶対に口外はするなよ。これは俺たちだけの問題ではないんだ。野呂さんにも迷惑がかかることになる。だから、これから俺が話すことはお前の胸の中にだけしまっておけ。」
「う・・ん。」
ずいぶんともったいぶった言い方だった。
ことの重大さがシゲさんの表情から読み取れる。
「実は俺やシホたちがこの街に住めるようになったのは、野呂さんが色々やってくれたおかげなんだ。」
「野呂課長が?いったい、あのひとがなにをしたの?」
意外だった。
「シホの件で青森から逃走を図るときに俺たちにはしなくてはならないことが幾つかあった。その中の一つに、移転記録の改ざんがあったんだ。奴らに見つからないようにするためには、新しい住所を秘匿しなけりゃならない。だが、俺たちにも生活はあるわけだから、ちゃんと転入届を提出して新しい住所を手に入れる必要がある。しかし、まともにそれをやってしまえば足跡を辿られて即座に居所が知られてしまうから附票や転入届をどうにかして偽造する必要があったんだ。附票は、わかるな?」
「えっと・・・附票は戸籍にくっついてる住所の変更記録でしょ?」
「そうだ。住民票ならば転出する際に適当な住所を書いてしまえば、それでしばらくは目くらましになる。しかし、住所記録の履歴である附票だけはどうしようもない。だから何とかして転入先の附票を改ざんする必要があった。それに転入先には転出元の異動証明も必要だから、それも偽造しなければならない。それで、そんなことを頼める相手を考えたときに野呂さんのことを思い出したわけさ。」
「よく、そんなことを承知したね。だってそれって紛れもない犯罪行為でしょ?」
なるほど・・口外できないわけだ・・・。
「まあ、確かにそうなんだが、野呂さんも児相に勤務していた時期があってな、シホのことを説明したら快く強力してくれたよ。あのひとの倫理観と俺の倫理観は似ているところがあってな・・・。というか、俺が野呂さんに影響されて、今の倫理観に辿り着いたようなものだが・・・。シホが住んでいるアパートから俺たちが住む家まで世話してくれて、この街に住むための手はずをすべて整えてくれたのは野呂さんなんだ。まったく、あのひとには頭が上がらないよ。」
「へぇー。」
「シホの戸籍にコトリちゃんを紛れ込ませたのも野呂さんがやってくれたんだ。ただ、おおっぴらに公開してしまうと、どこでボロが出るかわからないから、普段は閲覧できないようにちょっと細工をしておいたんだ。」
だから閲覧できなかったのか・・。
「野呂課長って、すごいんだね。」
「ああ、あのひとは本当にすごいひとなんだ。裏も表も知り尽くしたまさに地方行政の生き字引みたいなひとさ。だから、お前を水道課から異動させるときに、あのひとの下に預けたんだ。」
すいません・・そのような配慮があったとは知りませんでした・・・。
「心臓を悪くされて青森を去ると決まったときは、オレも半身を失ったような気持ちになったものだ。偉大な俺の師匠だったからな。あのひとから教えていただいたことは数知れない。もし、野呂さんがあのまま青森に居続けてくれたなら、俺の人生もまた変わっていたかもしれんな。だが、結果的にはこうして俺やシホを救ってくれることになったわけだから、人生なんてどこでどう転ぶかわからないもんだ。だから、「生きる」ということは面白いんだ。」
最後は、自分自身に言って聞かせているようだった。
「とにかく一日だけ待て。」
今すぐにでも飛び出したい気持ちはあった。
だが、シゲさんにそこまでいわれては無視するわけにもいかない。
逸る気持ちを抑えて、一日だけ待った。
コトリに会いたい気持ちはあったが実家へは帰らなかった。
アパートにも戻らなかった。
青森へ行くと決まって、オレは再び、レンのマンションを訪れていた。
※元投稿はこちら >>