――第41話――
やけに静かだった。
だだっ広い病院のロビーの中。
救急指定だから、天井にわずかばかりの灯りが残されている。
ひとの姿はなかった。
シゲさんとオレだけが、この世界から取り残されたように、ぽつんと待合室のイスに座り込んでいた。
ぐびり、と隣りでコーヒーを飲み干す音が、ひどく耳障りでならなかった。
シゲさんが静かに語ってくれた真実。
シホが少女売春?
コトリが近親相姦の果てに産まれた子供?
んなアホな。
シゲさん、冗談はやめようぜ。
だってシホとコトリだぜ?
あの天然スチャラカコンビだぜ?
だって、あいつ等あんなに嬉しそうに笑うんだぜ?
だって、あいつ等オレのために、あんなに尽くしてくれるんだぜ?
だって、あいつ等・・・だって・・・だって・・・・。
自分でも泣いていることに気付かなかった。
「辛いだろうが、それが真実だよ。」
そんな真実・・聞きたくねえよ・・・。
俯くしかできなかった。
見る間に広がっていった足元の溜まり。
涙どころか鼻水までがボタボタ垂れていた。
「シゲさん・・シホって・・幾つなの?・・」
途中から・・・歳なんか、わかんなくなっちゃったよ。
あいつ、いったい幾つなんだよ?・・・。
「いま、二十歳だ・・。11歳でコトリちゃんを産んで、それから9年が過ぎた・・・。」
「はは・・・11歳って・・。」
いまのコトリとふたつしか違わねえぞ。
いつからこの国は、そんな子供の出産を許すようになった?
「う、嘘でしょ?・・・そんな歳で・・・こ、子供なんか・・産めるわけないよね?・・。」
声が震えていた。
声だけじゃない。
手足までが震えていた。
「絶対に不可能、ってわけじゃない。俺が児相にいる間も、やはり12歳の少女が出産した例がある。」
「なんで・・・産めるんだよぉ・・。」
「普通なら無理だ。自分の命に関わってくるからな。今言った少女だって、徹底した病院側の集中管理の下でやっと出産できたんだ。」
「じゃあ、シホも?・・・。」
シゲさんは、顔を俯かせた。
「あの子は・・・自分ひとりだけで産んだ・・・。」
苦しそうな声だった。
「ひとりって・・なんでひとりなんだよ?どうしてシホは、コトリをひとりで産まなきゃならなかったんだよ?なんであいつがそんなひどい目に遭わなきゃならないんだよ!!!?なんでだよっ!!!!」
何がなんだか、わからない。
今も隣りで語るシゲさんの言葉が、現実のものだなんて思えない。
「落ち着けタカ!」
肩を掴まれていた。
「なんで・・シホが・・・シホが、そんな目に・・・。」
涙はどうしようもないまでに溢れて、止まらなかった。
あんなに可愛い女なのに、想像もできない地獄の中で生きてきた。
11歳で自分の父親の子供を身籠もり、たったひとりきりでコトリを産んだ?
命がけの作業を、たったひとりでやり遂げた?
あいつはどんだけバケモンなんだよ?
ハハ・・。
あいつがどれほど可愛らしく笑うのか、知らねえだろ?
子供みたいに無垢な笑顔で笑うんだぞ・・。
それこそ、天使みたいに可愛い笑顔で笑うんだぞ・・。
たまに変身するけど、それだってな・・・。
突然、脳裏をよぎった蒼白な顔。
か、かい離・・・してたのか?・・・。
あいつが時々変身していたのは、精神の均衡を保つために人格を入れ替えていたから。
つらい過去のトラウマから逃げ出すために、あいつは別の人格を使い分けて精神崩壊を免れていた。
ならば、あの豹変した姿も頷ける。
多重人格とまでは行かないまでも、シホの中には確かにもうひとつ別の人格が眠っている。
そして、その人格は・・・。
「シゲさん・・行こう・・。」
「うん?」
「すぐにあいつ等のところに帰ろう。」
居ても立ってもいられずに席を立った。
まったくオレはバカだ。
襲撃もそうだが、シゲさんが恐れていたのは、もっと別なこと。
おそらくそうだ。
「シゲさん、シホのアパートには「たまに」じゃなくて、定期的に行ってたんだろう?それもずいぶんと前から。」
歩きながら話しかけた。
顔は、正面だけを見ていた。
今にも駆け出しそうな勢いで歩くオレの後をシゲさんがついてくる。
こんな構図、滅多にない。
シゲさんは、なにも言わなかった。
かまわず続けた。
「シゲさんは、気付いていたから定期的にシホの様子を確かめていた。そうじゃないの?」
シゲさんは無言を続けている。
「奉納試合のときに体育館で会っていたのも、シホが呼びだしたんじゃなくて、シゲさんが呼び出したんだろう?シホの状態を確認するために。」
「あの日、シホにどうしても確かめなければならないことがあった。」
シゲさんがやっと食いついてくる。
「それは?」
「刑務所に収監されていた父親の出所が決まったんだ。それをシホが知っているか確かめたかった。」
子供だったシホを孕ませたクソ変態オヤジか。
「シホはなんて?」
「知らない、と答えた。」
嘘だ。あいつは知ってたんだ。
「それで、その父親の元へ走らないように、オレを張りつかせたわけ?」
たぶん、そうだ。
襲撃も脅威だが、もっとも恐れていた脅威はごく身近にあった。
シホ自身だ。
近親相姦には魔力がある。
一度ハマり込むと、そこから抜け出すことは、なかなか難しい。
だから、シゲさんはコトリではなく、シホを重点的に警戒しろといったのだ。
「タカ、いいのか?」
シゲさんが、後ろから訊いてきた。
「ええっ!?なにが?」
「その・・シホのことを知ってもまだ・・・。」
「ああっ!?」
シゲさんにしてはめずらしく弱気な声だ。
「シゲさん、オレのこと舐めてんの?」
「いや、そうじゃないが・・・しかし・・。」
「しかしもカカシもヘチマも減ったくれもねえっての!あいつはオレの女で、これまでも、これからもずっとずっとオレの女だっつうの!!」
親子丼、逃がしてたまるか!
「シゲさん行くよ!」
すぐにでも、戻ってやりたい。
あいつ等のそばにいてやりたい。
過去なんか、どうだっていい。
あいつ等が隣りにいて、笑ってさえくれれば、それだけでいい。
バカなオレがあいつ等のためにしてやれることなんてひとつしかない。
そばにいて、ずっとあいつ等を守ってやる。
それだけだ。
不安になるとすぐに衝動的になるのが昔からの悪いクセ。
居ても立ってもいられずにロビーを抜け出すと、すぐに駆け出していた。
「タカ!」
逸るオレを抑えようとしたのか、シゲさんが呼び止める。
「なにっ?!」
何度も何度もなに?
オレは早く帰りてえんだよ。
だだっ広い駐車場を前にして向き合っていたふたり。
夜も遅かったせいか、駐車場には一台の車もない。
春だというのに肌寒い風がふたりのあいだを吹き抜けていた。
オレが振り向いた先には、肩で息をしていたシゲさん。
そのシゲさんが口を開いた。
「お前、どうやって帰るつもりだ?」
はっ?
う゛ぁあああああっ!車がねえぇぇっっ!!!
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