薄い壁の向こうから、かすかに聞こえてくるのは、ボイラーの音。
シホの部屋。
セミダブルのちょっと大きめのベッドの中。
「シャワー浴びてくる・・・。」
夕べお風呂に入ってないから、恥ずかしいんだって。
「だめっ!」
そのまま、一緒に入ろうとしたら、コトリに追い出された。
何か思うところがあるらしい。
昼になってコトリは、無事に退院し、オレとコトリは、取りあえずアパート
に帰ることに。
「ごめんなさい。もう一度戻らないといけないの。」
シホが送ってくれたが、会計の仕事が、思いのほか忙しいらしくて、彼女
は、もう一度病院へ戻っていった。
「退院したばかりなんだから、あまり、無茶はしないでね。」
部屋を出ようとしたところで、コトリに心配そうな目を向けながら、シホが
そっと耳打ち。
お前は、なぜ、オレの腹の中を読む?
無茶?
するよ!
だって、コトリがイイって言うんだも~ん♪
げへへっ・・・。ほんとに、できんのかな?
コトリが出てくるまでの暇な時間を、レンの作ってくれたファイルを眺めて
いた。
すげぇ資料だな・・・・。まったく、アイツのオタクぶりには舌を巻く
ぜ・・・。
主要な団体名、所在地域、活動範囲、勢力図、構成人数、主だった幹部の実
名まで書いてある。
そして、A4の薄いペーパーには、阿宗会の重い歴史が、綿々と記されてい
た。
阿宗会。
牛蒡型の注連縄に「阿」の代紋。
下部組織20団体、構成員約2300名。準構成員を合わせれば5000名
を超える、東北地方の一大勢力。
元は、テキ屋同士の相互扶助団体であり、東北3大祭りを主な生業とする香
具師集団だった。
「秋田神農連合会」という名称で立ち上がった組織は、日本高度成長期の昭
和41年、初代会長となった宗形光昭によって、「阿宗会」と名称が変更さ
れる。
名称変更の理由はいくつかあったが、その最も大きな理由のひとつに、同じ
く東北一帯で活動する「本間会」の勢力拡大があった。
秋田神農連合会の独占に近かった祭事神事分野に、本間会が進出を図り、活
動圏の縮小を危惧した宗形は、それまでの協同組合型連合から、家長制度に
よる徒弟制へと組織を移行させることを決断する。
家長への忠誠による帰属意識を高めることにより、組織の強化を図ったわけ
だ。
宗形のカリスマ的存在感と、元々、徒弟制が強く根付いていた組織形態は、
新体制への移行をスムーズに行わせたらしい。
同地域に本間会という強敵がいたことも手伝って、阿宗会は、瞬く間に結束
力を強め、まさしく一枚岩の巨大な組織へと変貌していった。
強力な指導者の下、宗形体制は20年以上の長きにわたり続いて、その間も
離合集散を繰り返したが、その勢力が衰えることはなかった。
昭和の終わりとともに、宗形は、その役目を果たし終えたかのように引退を
表明する。
現会長は4代目。
しかし、宗形が引退した直後から、阿宗会は、大きく変質していくことにな
る。
宗形により跡目に指名された2代目が、襲名してすぐに本間会によって暗殺
されると、入れ札により3代目となった芽室優樹は、阿宗会を、武装路線の
武闘派集団へと体質を大きく変化させていく。
また、それまでのテキ屋を中心とした小売業主体の事業形態から、恐喝、賭
博、売春、人身売買、ヤミ金融など、ありとあらゆる非合法的経済活動にも
手を染めるようになり、まさしく暴力団としての顔を前面に押し出すように
なった。
芽室が就任してから7年後、阿宗会の中でも生え抜きの経済ヤクザとして、
芽室からの信任が厚かった速見尚人は、その芽室の推薦によって4代目会長
の座に就くと、すぐに、辣腕ぶりを発揮して、さらに企業舎弟による合法的
経済活動の活発化を推し進めていく。
金融、土木関係、港湾関連の荷役作業は元より、特に公共事業への参入を画
策して、県政、市政への食い込みを図り、それは、まんまと成功する。
東北一帯とまではいかないまでも、日本海側の主要な県に影響力を及ぼすま
でに至り、阿宗会の地位は、もはや盤石のものと成りつつあった。
しかし、火種がないわけでもなかった。
実は、4代目会長の指名には、入れ札を求める声が多かった。
元は、テキ屋の相互扶助団体として立ち上がった組織である。
江戸時代よりも古くから、神事祭事による生業を是としてきた集団には、今
の組織の体質を快く思わない者も多い。
初代宗形の影響力を求める声も根強く、入り札による決着では、宗形閥が有
利かと思われていた。
だが、3代目会長芽室は、その声を血の粛清により封じ込めた。
そして、後継者として自分の右腕である速見を、会長の座に据えることに成
功するのである。
阿宗会は、その当初の理念を離れて、まったく違う組織になった。
芽室、速見による恐怖支配は、確固たるものとなり、もはや揺るぎようがな
い。
しかし、現体制に反骨する者がいないわけでもなかった。
如月和磨。
旧宗形閥の雄。
武闘派として名高い阿宗会にあって、さらに最強の組を作りあげた男。
Years Ago・・・
青森市内。
品格を思わせるイルミネーションが、ひときわ目を惹く重厚な建造物。
青森シェラトンホテル。
地下の駐車場から、ロビーに向かうと、約束通り男は待っていた。
全身黒のスーツに、胸には赤いネッカチーフ。
長身痩躯の優男。
甘いマスクに光る銀縁眼鏡。
今日で、この男に会うのは3回目。
男が気づいて、すぐに立ち上がる。
こちらを振り向くなり、鋭い視線で睨みつけてきた。
けっ!相変わらず虫の好かねえ野郎だ・・・。
トリヤマは、胸の中で毒づいた。
腰まで高さのあるトランクケースを後ろに引いている。
中には、注文のブツ。
「先生様は、上かい?」
男は、じろりと睨んだだけで、答えようともしない。
すぐに、踵を返すと、ついてこいと言わんばかりに、エレベーターへと向か
って歩いていく。
時間は、深夜になるところ。
すでにロビーの大半の灯りは落とされ、わずかにフロント近くの灯りがつい
ているだけでしかない。
人目は少ないが、フロントには、ふたりのスタッフがまだ残っている。
ときおり、ひとりが、こちらにチラチラと目を向けていた。
こんなところで、トランクのやりとりをするわけにはいかない。
渋々、トリヤマも後について行った。
「さっさと渡してもらおうか。」
エレベーターに乗り込むなり、すぐに男が口を開いた。
銀縁眼鏡の奥から放たれる冷たい眼差し。
瞳に中に浮かぶのは、軽蔑の色。
やっぱり、コイツは気にいらねぇ・・・。
とっさにケツからナイフを取り出すと、トリヤマは、飛び出させた刃先を男
の喉元に突きつけた。
「あんまり、エラそうにすんなよ。
てめぇなんざ、ただの木っ葉に過ぎねえんだ。
先生様ってわけじゃねえんだから、口の利き方には気をつけろ!」
精一杯脅したつもりだが、男は顔色ひとつも変えはしない。
「けっ!」
しばらく無言のままに睨みあったが、冷たい眼の迫力に気押されたのは、結
局トリヤマの方だった。
「ほらっ!」
乱暴にトランクの取っ手を相手に渡して、自分は適当な階のボタンを押す。
最上階の12階に辿り着くと、男は、何も言わずトランクを引いて、出て行
った。
「先生様に、よろしく言ってくんな!」
捨てゼリフを男の背中に向かって吐き捨てた。
深夜のホテルは、死んだように静まりかえっている。
そんなことを大声で叫べば、自分たちの命取りになりかねない。
だが、言わずにはおれなかった。
エレベーターが下がり始めて、すぐに停まる。
トリヤマは、エレベーターを出て、非常階段に向かうと、その足で地下の駐
車場へと降りていった。
指定された部屋は1203号室。
あの男によって、ブツはそこに運び込まれる。
そして、先生様の手に渡る。
だが、トリヤマは知らなかった。
その部屋に辿り着く前に、あの男がトランクを開けていたことを・・・。
男は、静かにトランクを引いていった。
1203号室の前で立ち止まる。
スーツの裾のポケットからキーを取り出した。
だが、1203号室のものではない。
1203号室には、すでに住人が待っている。
ドアをノックすれば、それですむ。
キーを使う必要はない。
真向かいのドアに、そのキーを差し込んだ。
部屋に入ってすぐに、トランクを開けた。
「ツグミ!!」
叱るような声。
男はトランクの中身を睨みつけた。
トランクの中で、小さく丸まった可愛らしい少女が、男を見上げて、悪戯っ
ぽい目を向けていた。
「うまくいったかトリ?」
「へえ・・・まあ・・・。」
車に戻るなり、トリヤマは不機嫌そうな声を出す。
「何かあったのか?」
「いや、別にたいしたことじゃねえんですが・・・あの、秘書の野郎
が・・。」
「ああ、アイツか・・・。」
和磨は、男の顔を思い浮かべて笑った。
「どうにも、気にいらねえ野郎でして、たかが秘書のくせしやがっ
て・・・。」
「アイツは、秘書じゃねえよ。」
「えっ!?違うんですかい?」
「ああ、アイツは、ただの県の役人だ。」
「県の役人?それが、またどうして?・・・。」
「アイツは、キレ者だからな。あの先生が目を付けたんだろう・・・。
こういった汚れ仕事もこなせる。
ゆくゆくは、あの先生の後押しで、政治家にでもなるんじゃねえか。」
「オジキ、あいつを知ってるんですかい?」
「ああ、よく知ってるよ。」
「だったら、あいつも仲間に引き込んで、いっそ他の先生方も取り込んじま
えば・・。」
気にいらねえが、そんだけの切れモンなら使えそうだ。
「無理だな。」
「どうしてですかい?」
「アイツは、汚れ仕事は出来るが、外道にはなれねえ。正義感が強いんだ
よ。」
そうだ・・・アイツは、昔からそういう奴だった・・・。
「そうですかい・・・。
じゃあ、仲間にならねえんなら、いっそのこと痛めつけてやりますか
い。」
「やめとけ・・・。お前じゃ、アイツにかなわねえよ。」
「オジキが言うほど、強え野郎なんですか?」
「ああ、俺とタメ張れんのは、アイツぐらいだ。」
「そんなに強いんですか!?」
「まあな。アイツに棒っ切れ持たせたら、まず、かなう奴はいない。
俺でもアブねえかもな・・・。」
「はあ・・・・。」
道理で、肝っ玉がすわってるはずだぜ。
そんなに強えんなら、さっきヤバかったのは俺の方じゃねえか。
「ところで、ツグミの方は大丈夫か?」
「へぇ、今日は、入札価格の下限と、今んところの参入希望社を聞いてくる
ように言い含めてあります。」
「そうか・・・。」
まったくバカなブタ野郎だ。
ツグミがガキだと思って、何でもペラペラ喋りやがる。
もっとも、ツグミは見た目だけなら、ただのガキにしか見えないからな。
おかげで、こっちもうまい汁が吸えるってもんだ。
あの子の記憶力を知ったら、あのブタ野郎、どんな顔をする事やら。
「しかし、オジキ・・・今回は、さすがにヤバくないですか?」
「なにがだ?」
「何が・・・って・・・。
いや、この話はうちのオヤジにも通ってないですし、
それにあの先生は、本間会の・・・・。」
オジキが、組の再興を狙って、焦ってるのはわかる。
だが、うちのオヤジがこれを知ったら、横槍を入れてくるのは目に見えてい
る。
それに、あの先生は、本間会のヒモ付きだ。
事がうまく運んだとしても、それを知った本間会が黙っているたあ思えな
い。
「なんで俺が、あのクソ野郎にわざわざエサを運んでやらなきゃならん。
それに本間会にしたところで、たとえこのカラクリがわかったとしても、
ウチには簡単に手を出せん。」
確かにオジキのところは、命知らずの猛者が集まったおっかねえ組だ。
それは本間会も知っている。
オジキに惚れ込んで集まってきた奴らは、オジキのためなら簡単に命だって
張る。
怖えのは、こういった自分のためじゃなく、人のために死んじまおうとする
奴らだ。
オジキのところは、そんなのばっかりが集まりやがる。
でも、そりゃ、オジキの男気に惚れてるからだ。
もしオジキが裏で、こんな腐れ外道な商売に手を染めてるなんて知れた日に
ゃ、あいつ等だって、どう動くもんだか。
だからこそ、オジキは俺なんぞに声を掛けたんだろうに・・・。
「心配すんなトリ・・・。」
心配すんなって、言われたって・・・。
「俺は必ずやり遂げる。
そして、あのクソ野郎をぶっ殺して昔の組を取り戻す。
そんときゃトリ・・・お前は、うちの若衆頭だ・・・。」
「へへっ・・・オジキが組長で、俺が若衆頭ですか・・・。
へへっ、そりゃ面白そうだ。今のうちに杯、返しちまいますかい?」
「おお、やれやれ。」
ははっ・・・そんなこたあ、出来るわけがねえ・・・。
でも、このオジキに期待しちまうのは、なぜなんだ?
あの頃は、良かった・・・。
今みたいに世知辛くなくて、みんな何にもねえのに、バカみてえに笑って
た。
この人だって、こんな腐れ外道じゃなかった。
義理人情に厚くて、まさしく任侠の漢だった。
みんながこの人を慕ってた。
先代のオヤジだって、このオジキに期待してたんだ。
必ず組を守ってくれるって・・・。
それが・・・。
みんな、あの日から・・・変わっちまった・・・。
3代目芽室による、血の粛清が始まったのは、突然のことだった。
まず、阿宗会20団体の主だった組長が、一堂に集められた。
目的は、次期後継者選び。
誰もが、入り札による投票によって4代目は選ばれるのだと思っていた。
だが、芽室は突如として、速見の4代目襲名をその場で発表する。
これには、宗形閥の組長たちも、さすがに驚いた。
突然の暴挙としか言いようがない。
当然のごとく、宗形閥の組長たちは猛反発して、喧々囂々(けんけんごうご
う)の言い争いとなった。
宗形閥の急先鋒は、青森市内で古くからテキ屋をまとめていた老舗の香具師
集団「円組」の組長、織笠実である。
織笠は、まだ四十にもならない若き組長であったが、その人徳には定評があ
り、厚い人望によって、宗形閥が推す次期4代目候補でもあった。
織笠は若いだけに、4代目ともなれば、長期政権になるのは、まず間違いな
い。
芽室は、なんとしても、それだけは避けたかった。
まだ引退するつもりもなかったが、長年患っていた糖尿により、もはや、体
は言うことをきかなかった。
ならば、まだ影響力のあるうちに自分の手で後継者を決めておきたい。
それが、芽室の腹の内だった。
シナリオは、最初から用意してあった。
もちろん、その為の準備も抜かりなくしてあった。
あとは、その時を、待つばかりだった。
結局、話し合いは物別れに終わり、業を煮やした織笠は、もはやこれまで
と、阿宗会からの脱会を、その場で宣言する。
織笠は、立ち上がり、仁王立ちになって、かつての盟友、そして、これから
は骨肉の争いをするであろう敵手、芽室を見下ろした。
「命運を分かち合うのも、もはやここまで!
我は天に背かず!
我を信じ、我に従い付いてくる者たちと共に、我が道を行く!」
威風堂々たるしたものだった。
阿宗会の中でも一番若い組長であったろうに、数いる組長を押しのけて、そ
の場で、もっとも威厳を保っていたのは、紛れもなくこの織笠だった。
宗形閥の組長たちは、この若き領袖の勇ましい姿に、明るい未来像を期待し
たかも知れない。
誰もが、次に起こる事態など、予想もしていなかった。
織笠が、脱会宣言するのを待ち構えていたかのように、突如、凶刃が織笠を
襲う。
黒い影が、背後から猛然と織笠に突進し、織笠の身体がぐらりと揺れた。
あまりにも突発的な一瞬の出来事に、皆、何事が起こったのかわからなかっ
た。
織笠の目が見開かれ、口元から断末魔のうめき声が洩れた。
口の端から、だらりと血が溢れだし、織笠は何かを掴むように、腕を宙に突
き出すと、そのまま力尽きたように倒れた。
織笠のいなくなった空間に立っていた男。
血まみれのドスを握りしめ、ハアハア、と肩で息を継いでいた。
その男の顔をはっきりと確かめて、皆、息を呑んだ。
なんと、織笠を背後から刺し貫いた刃を握っていたのは、それまで織笠の後
ろで、じっと事の成り行きを見守っていた円組の若衆頭、黒滝英次だったの
である。
「あ、阿宗会に・・・弓引く者は・・す、すべて敵だ・・。」
黒滝の声は震えていた。
声だけではなく、血塗れのドスを握る手も、畳を踏ん張っている両足も、身
体のすべてを震わせながら、黒滝は呆然とした顔でその場に立ち竦んでい
た。
「おどりゃあ!!!」
たちまち黒滝の体に、若衆たちが群がった。
皆、手にはドスを握りしめていた。
衆人環視の中で、親殺しの大罪を犯したのである。
どんな、言い逃れもしようがなかった。
若衆が離れると、黒滝の体には、まるでドスが生えたように、何本も突き刺
さっていた。
黒滝は、その場で絶命した。
宗形閥の組長たちは、その光景に恐れおののいた。
それが最初から仕組まれた茶番であることなど、百も承知していた。
会場に入る前に厳密なボディチェックがされていた。
だから、この場に刃物を持ち込めるわけがない。
にも関わらず、黒滝のドスは、ボディチェックをすり抜けた。
若衆たちは、当たり前のように、懐からドスを取り出した。
誰かが、彼らにドスを与えたのだ。
それは、言わずとも知れていた。
明日は、我が身・・・。
その場にいた組長たちの脳裏にあったのは、その言葉だけだったろう。
誰もが声を失っていた。
芽室は、勢いに乗って、次の手に打って出た。
「織笠組長には、大変気の毒なことをした。
しかし!この円組の若衆頭が義憤に立ち上がったのも無理のない話であ
る。
阿宗会は、平和共存のうちに、ここまでの繁栄を培ってきた。
しかるに!個人的怨嗟によって組を割って出るなど言語道断である。
織笠組長は、阿宗会からの脱会を宣言した!
これは、阿宗会に仇なす行為に等しい。
だが!この命をかけた勇気ある若者の意を汲み取って、
黒札による破門だけは許してやりたいと思う。
今後の円組の処遇は、この速見に一任したいと思うが、
皆の衆に反対の者はあるか?」
白々しい詭弁でしかなかった。
円組に対する懲罰の決定権を速見に与える。
それは、すなわち4代目を承認したことになる。
しかし、血の海の中で事切れた織笠と、そこに折り重なるように倒れる黒滝
の死体を目の前にして、誰に何が言えただろう。
ふたりが、呆気なく殺されたのは、紛れもない事実だった。
この場において芽室に対し、異を唱えることは、自分の将来が目の前の光景
と、まったく同じになることを物語っていた。
皆、声を殺していた。
怒りに拳を握りしめながらも、俯かせた顔を上げた者は、ひとりもいなかっ
た。
ここに、仁義は死んだのだ。
こうして、芽室は最大の難局を乗り切った。
芽室に反発する者は、まだ確かにいただろう。
しかし、その声を封じ込めることには、成功したのである。
円組に対する速見の行動は、実に素早かった。
その日のうちに、速見は、芽室が作りあげた血の軍団を円組のシマに送り込
むと、たちまちの内に、円組の主だった組を制圧していった。
ただ、ひとつだけ計算外だったのは、如月組を甘く見ていたことである。
和磨の若衆たちは、血の軍団と呼ばれる芽室の殺人集団に臆することなく戦
った。
一騎当千の戦いぶりで、ことごとく押し寄せる敵を撃破していき、最後まで
如月組を守り抜いた。
あの如月和磨が、その場にいなかった、にも関わらずである。
その頃、和磨は義理掛け事で、関西に出向いていた。
突然の凶報に、慌てて戻ったときには、和磨の組を除いた、他の組のほとん
どが、速見の手に落ちていた。
もし和磨が、このとき地元に残っていれば、もう少しマシな結果になってい
たのかも知れない。
類い希な戦闘力を持った男だった。
そして、絶大な信頼と求心力もあった。
だから、和磨がその場に居さえすれば、これほど、無惨な敗北には終わらな
かったに違いない。
だが、すべてが、後の祭りだった。
わずか二日間で円組はバラバラに解体された。
主だった幹部連中は破門か除籍され、恭順の意を示した者だけが、円組に残
ることを許された。
そして、残った組長には、織笠の杯を返すよう命じ、新たな杯を受けるよう
指示が出た。
速見の辛辣さを極めたのは、ここからだった。
新しい親子杯を交わす相手。
それは、あろう事か、織笠を殺した黒滝の率いる倖田組の若頭、三隅だった
のである。
織笠が親子杯を交杯した直系組長は、全部で12名。
当然、円組の若衆頭だった黒滝は直系組長だが、その倖田組の若頭でしかな
かった三隅に、織笠との親子関係はない。
その三隅と残った直系若衆である各組長たちが、親子杯を交わさなければな
らないである。
つまり、親分格であった者達が、乾分から交杯されるのだ。
そんな馬鹿な杯事は聞いたことがない。
しかし、速見はあえて、その杯事を強行した。
完膚無きまでに円組の幹部たちに打撃を与え、円組を根こそぎ骨抜きにして
しまう腹づもりだったのである。
黒滝を影で操っていたのは三隅に違いなかった。
無論、その背後に芽室と速見がいたのは、間違いないだろう。
奴らがどんな手を使って黒滝をハメたのか、わからない。
だが、今さらそれがわかったところでどうしようもなかった。
三隅は、速見との親子杯を交わし、本家の直系若衆となって、一挙に円組の
頂点に立ってしまった。
もはや織笠はいなかった。
頼みの綱の若衆頭は、親殺しの大罪で殺され、絶縁された。
従うしかなかった。
生き延びるためには、かつての乾分を組長として崇めなければならなかっ
た。
だが、その中にあって、ただひとりだけ、頑なに自分の道を貫く男がいた。
それが、如月和磨だった。
和磨は、破門を覚悟していたが、なぜか三隅は和磨を破門にしなかった。
代わりに、三隅の杯を受けるように再三迫った。
和磨は、殺された黒滝と兄弟分だった。
下足番から始まって、共に苦労をし、泣き笑いながら、一緒にここまで上り
詰めた仲だった。
ましてや、和磨の恋女房、美羽は、黒滝の妹だったのである。
和磨と黒滝は、そういった意味でも、まさしく義兄弟だった。
その兄弟を三隅は無惨に殺した。
証拠はない。
だが、和磨には確信できる。
そんな男の杯など受けるはずがない。
和磨は、ひとり気を吐いた。
織笠の杯は返してない。
たとえ故人となっても、新たな親子杯を受けない限り、和磨は織笠の子であ
った。
それはつまり、和磨には、まだ円組を再興し、自分が親分となる権利がある
ことを物語っている。
たったひとりになっても、やるつもりだった。
それが、義兄弟である黒滝への弔いだと信じていた。
「トリ・・・車を出せ・・・。」
「へい。」
ベンツAMGの重厚なノイズが駐車場に響き渡る。
真っ黒な車体が、滑るように静かに動き出した。
あとは、ツグミがうまくやってくれる。
それにアイツもいることだから、心配する必要もねえだろう・・・。
まったく皮肉な話しだ。
アイツと、こんな形で会うことになろうとはな・・・。
だが、これも運命だな。
今頃、ツグミに説教でもしてんのか?
ツグミから聞いたよ。
俺から逃げるように、吹き込んでるらしいじゃねえか。
だが、無駄なことだ。
ツグミは、俺から離れねえ。
離れられねえ身体にしてやった。
オメエは女がわかっちゃいねえよ。
あいつ等は、男を破滅させるためだけに生まれてくる。
だから、容赦なんかする必要はねえ。
徹底的に痛めつけて、君臨してやれば、それでいいんだ。
愛だの恋だの、そんな戯言を信じてるうちは、オメエにツグミは動かせねえ
よ。
もっと女を勉強しろ。
なあ、重丸・・・。
同時刻。
青森シェラトンホテル。
1212号室。
「ツグミ!!どうしてお前にはわからないんだ!?」
「どいて・・・。」
まったく取りつく島もなかった。
「こんなことをしたところで、何も変わらないんだぞ!」
「あなたには、関係ないわ・・・。」
幾つにもカールされた、長い巻き髪。
まるでフランス人形のような青い瞳。
「どうして、もっと自分を大事にしないんだ!?」
ゴシック調の短いドレス。
足にはリボンの付いたニーソックス。
「大事に?・・・大事にしてるつもりよ。あの人が可愛がってくれるも
の。」
「お前は、間違ってる!」
小柄な身体だった。
「間違っててもいいわ。あの人のそばにいられるなら・・・。」
ツグミは、冷たい眼だけを残して、そのまま部屋を出て行こうとする。
「待て、もう少し話を聞いてくれ。」
「離して。大声で叫ぶわよ。騒ぎになると、あなたの先生が困るんじゃな
い?」
ツグミの耳には、何も届かない。
ドアノブに手をかけた。
「あの子は・・・あの子は、どうするんだ?・・・。」
わずかにツグミの動きが止まる。
だが、彼女は振り返らなかった。
すぐにドアを開けると、そのまま部屋を出て行った。
向かいの部屋をノックする音が聞こえてくる。
「おお!!やっと来たか!」
感嘆の声。
バタンとドアの閉まる音がして、あとは何も聞こえなくなった。
いったい、どうすりゃいいんだ?・・・。
ベッドに座り込んで、頭を抱えた。
まさかこんな形で、また、あの子に会うことになろうとは、夢にも思っても
いなかった。
なんてこった・・・。
シコリのような徒労感だけが、ずっしりと重く身体にのしかかる。
和磨・・・このバカ野郎・・・・。
かつての友の名を、重丸は胸の裡で罵った・・・。
和磨は、バックミラーに映る景色を見つめていた。
シェラトンホテルが、小さな窓の中で、どんどん遠ざかっていく。
明日の朝までは、あの先生がべったりだ。
朝になったら、ツグミを迎えに行きゃあいい。
うまいこと狂ってくれたぜ。
見事なくらい、狂ってくれた。
あの女は、男を狂わせる。
まったく、母親にそっくりだな・・・。
和磨は、ぼんやりとバックミラーに映る影を見つめつづけた。
闇夜の空を背景に浮かぶ巨大な影は、すぐに、あのマンションを思い起こさ
せた。
あのマンションも、こんな風に夜空に向かって、誇らしげにそびえ立ってい
た。
(あの野郎は誰でもねえ、オメエを恐れたんだよ・・・。)
耳朶に蘇る呪いの言霊。
和磨は、バックミラーを覗きながら、口惜しげにギリッと奥歯を噛み締め
た・・・。
あの兄妹に出会ったときのことは、今でもはっきりと覚えている。
まだ織笠のオヤジが、自分の組を立ち上げたばかりの頃だった。
俺は、組に入ったばかりで下足番。
オヤジのお供で、本町界隈をブラッとしてたときのことだ。
怒号に振り返ると、あの野郎、血塗れになって、いきなり角から飛び出して
来やがった。
ほんとに、腕っ節だけは、からっきしだったな。
相手は、本間会のチンピラども。
アイツだけだったら、オヤジも俺も、そのまま、素通りしたかも知れねぇ。
オヤジもまだ組を立ち上げたばかりで、本間会への挨拶回りも済んじゃいな
かった。
敵同士なのに、挨拶回りってのも変だよな。
だが、オヤジは、そんなことでもキチッとする人だった。
だから、みんなに慕われたんだろうが・・・。
見過ごせねぇ理由があった。
アイツの足に必至にしがみついていた女の子。
小汚ねぇ服来て、顔もすすけていやがったっけ。
美羽さえ見つけなきゃ、俺もオヤジも、あの兄妹に関わることはなかったの
かもしれねえ。
突き飛ばされて、すっ転ばされ、美羽は大声で泣いていた。
そんなのを見て、あのオヤジが黙ってられるはずがねぇ。
俺だって、そうだ。
オヤジが顎をしゃくったときには、野に放たれた猟犬みてえに猛然と突っ込
んでたわ。
ガキの頃から、泣きながら親父に鍛えられたおかげで、腕っ節にだけは自信
があった。
ずっと連んでたツレが、強かったってのも、俺が強くなった理由だがな。
あのバカとは、結局引き分けのままだ。
すぐに棒っ切れ振り回しやがるんだから、汚ねえ野郎だよ。
勝負は、5分とかかりゃしなかった。
ひとりは、死んだんじゃねえかってくらい、豪快に吹っ飛んだ。
オヤジから、しばらくケンカを御法度にされてただけに、あの時はスカッと
したぜ。
英次は、立てねえくらいフラフラになっていた。
だが、どう見てもケガはたいしたことはねえ。
「メシを食ってねえのか?」
オヤジもよしゃあいいのに、すぐに仏心を出しやがった。
あの時、ふたりをそのまま放っておきゃあ、オヤジも死ぬことはなかった。
俺だって、ここまで落ちぶれることは、なかった・・・。
いきなり三隅が、組の事務所に現れたときには、さすがの和磨も驚いた。
三隅は、このとき45才。
和磨たちよりも、はるかに年長者の渡世人だった。
「もういい加減、杯を受ける気になったかい?」
後ろに、ふたりの手下を引き連れていた。
芽室にふたりを殺されて、まだ10日も経っていなかった。
「テメエ、殺されにきたのか?・・・」
この時期に、敵中に乗り込んでくるなど、正気の沙汰じゃない。
和磨の組には、この男を殺したがっている血に飢えた野良犬どもが、溢れて
いるのだ。
だが三隅には、まったくと言っていいほど、恐れがなかった。
恐れどころか、どこか勝ち誇ったような薄ら笑いさえ浮かべていた。
「まあ、そういきり立つなよ。
何もケンカをしに来たわけじゃねえんだ。
そろそろ、オメエにもこの茶番劇のカラクリを教えてやろうかと思って
よ。」
「なに?・・・」
「俺も、もう、うんざりなんだよ。
テメエなんざ、さっさと破門にしちまえばいいのに、
本家がどうしても首を縦に振らねえんだ。
どういうつもりなんだろうねえ。
それでだ・・・
こっちとしてもテメエみてえな狂犬が、
いつまでものさばってるのは目障りだからよ、
さっさと引導でも渡してやろうかって気になったのさ。」
「テメエ、なに吹いてやがる・・・。」
「まあ、興味があるなら、今夜8時に黒滝の野郎のマンションに来い。
そこで、洗いざらいテメエに教えてやる。」
かつての親分の名を呼び捨てだ。
それも和磨の義兄弟をだ。
こんな外道は、殺しちまってもいい。
怒りに、我を忘れて和磨は、襲いかかりそうになっていた。
「ああ、そうだ・・・女房は元気かよ?」
「なんだと?・・」
不意に美羽のことを口に出されて、和磨の動きが止まった。
「へへっ・・・俺がよろしく言ってたって、女房に伝えといてくれや。」
そう言った三隅は、不敵な笑いを残して、事務所を出て行った。
あの女は、魔物だ・・・。
英次だって、あの女の本性に気づいていたかどうか・・・。
織笠のオヤジが英次を拾った頃、美羽は、まだ11才の胸もほとんどねえガ
キだった。
小汚ねえカッコをした、すすけた顔の下に、あれほど可愛い顔が隠れていた
と知ったときには、さすがの俺も驚いたぜ。
野に咲く一輪の花じゃねえが、手折ることさえ躊躇うほどに、あどけない顔
をした娘だった。
そのくせ、驚くほどの長い睫毛の向こうから、でかい目ん玉で、じっと見つ
められたりすると、ガキとは思えねえ、妙な色っぽさがあった。
英次とコンビを組むようになってからは、しょっちゅう、アイツらのアパー
トへ転がり込んだ。
無論、英次と連んでたから、ってのが大きな理由だったが、美羽に会いたか
ったってのも嘘じゃねえ。
美羽は甘えて、よく俺の膝の上に乗ってきた。
柔らけえ身体を押しつけて、あの舌っ足らずな可愛い声で、いろんなモノを
ねだりやがった。
だが、アイツが一番欲しがったのは、飾りでも食い物でもねえ。
俺だった。
あんな胸もほとんどねえ、小僧みてえな身体したガキが、男を欲しがったん
だ。
「美羽のこと、嫌い?」
英次が、ちょいと買い物に出た、わずかな時間だった。
美羽は、そう言って俺にすり寄ってきた。
ひどく、可愛らしい声だった。
身体はガキだったが、俺を誘う表情は、紛れもなく女だった。
アイツは、俺のモノを当たり前みてえに掴み出して、口にした。
そして、俺を跨いで、しがみつくと、テメエからケツを落としていったん
だ。
呆気なく、アイツの中に呑み込まれた。
あの歳で、すでに男を知っていたことに、さすが驚きもしたが、今どきのガ
キなら、さほど珍しいことでもねえ。
世の中には、色んなことがありやがる。
そんな些末なことをグジグジ言うほど、俺も野暮じゃなかった。
アイツに取り憑かれんのに、そんなに時間は掛からなかった。
英次の目を盗んじゃ、狂ったように美羽を抱きつづけた。
さすがに英次にゃ言えなかった。
あんなションベン臭い娘を、ましてや、アイツの妹だ。
しばらくは、英次の顔をまともに見ることも出来なかったっけ。
従順な女だった。
ガキのくせに、たまらねえ声で泣きやがった。
でもな、英次・・・。
オメエは、知ってたんだろう?
俺が美羽に何をしてたのか?
知らねえ訳は、ねえよな・・・。
星は、なかった。
どんよりとした雲だけが、見渡す限り空一面に広がっていた。
闇夜に向かって、往々しくそびえ立つ四角いビルは、まるで英次を弔う、大
きな墓石のようにも見えた。
そんな風に思えたのは、もう、英次がこの世にいなかったからかも知れな
い。
さびしい場所だった。
郊外にあるニュータウン。
まだ、インフラも完全に終わってない、この新しい高層住宅街のマンション
に、英次は独りで住んでいた。
「伴侶をめとって、男は、初めて一人前だ。」
責任を持て、ってことだったんだろう。
織笠のオヤジは、いつまでも独りモンの英次に向かって、事ある毎に、そん
なことばかり言ってたっけ。
「美羽さえ、幸せになればいいのさ・・・。」
アイツの答えは、いつもそれだった。
「和磨・・・美羽を頼んだぞ・・・。」
そう言った英次の顔は、決まっていつも寂しそうだった。
和磨が、美羽を女房にしたのは、美羽が17のとき。
以来、子宝にも恵まれて、仲睦まじく暮らしている。
英次・・・・美羽のことは心配すんな・・・・。
和磨は、ひとり佇んで、かつて義兄弟が暮らしていたマンションを見上げて
いた。
もう、ここに住んでいた男は、この世にいない・・・。
若い衆は反対した。
だが、和磨は、ひとりでやってきた。
なぜか命の危険を感じなかった。
むしろ、それ以外の何か得体の知れない嫌な予感に、胸がざわついてならな
かった。
時間は、もうすぐ8時になるところ。
恐れはなかった。
和磨は、咥えていたタバコを指で弾いて投げ捨てると、待ち構えているかの
ように、ポッカリと口を開けたマンションの入り口に向かって、歩き始め
た。
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