六、仮面を脱ぐ夜
初めての顔出し投稿。それは、ほんの一瞬の表情。カメラに向けて視線を外し、髪を少し乱し、唇をわずかに開いた。ほんの小さな“素顔”の露出——
けれど、それはネットの海では充分すぎるほどの衝撃だった。
「美しすぎる」
「理想の人妻。表情がエロすぎてつらい」
「君のすべてが見たい」
「次は動画で」
「オフ会しないの?」
彼女は、画面に溢れる声の洪水に、言葉を失っていた。
だが、その目は確かに興奮に濡れていた。
彼女はもう、“見せる女”ではなく、見せることに快楽を覚える女になっていた。
「こんなに……あたしのこと、欲しがる人がいるなんて」
そう呟いた夜、彼女は自ら私のズボンを下ろし、手で触れながら、まるで礼を言うように、私を吸った。
それは、受け身ではない奉仕。
“あなたが私を目覚めさせてくれた”——その証のようだった。
数日後。
ダイレクトメッセージが届いた。
「あなたの投稿を見て、ずっと震えています。
もしも、一度だけ、直接お会いできたら……」
送り主は、写真サイトの常連。
彼のコメントには、他の投稿者たちへの敬意や美意識があり、下品さはなかった。
彼女も、それをよく読んでいた。
「この人……ほんとうに、会いたいって思ってくれてるのかな」
「どう思う?」
「……会ってみたい。会って、私がどう感じるのか、確かめたい」
眠れない予感
指定されたのは、隣の市のラグジュアリーホテルのバーラウンジ。
一階に広がるその空間は、まるで舞台装置のように照明が計算され、
誰もが自分を演出している。
「こんな場所……緊張するね」
彼女はワインレッドのワンピースを選んでいた。
胸元は深く、背中は大きく開いていた。
足元は、黒のストッキングにピンヒール。
レオタードではない——けれど、
この一着が、どれほど“視線を集める”か、彼女はちゃんと知っていた。
現れたのは、スーツを着た端正な男だった。
落ち着いた物腰で、言葉も丁寧。
けれどその目だけが、彼女の首筋、胸元、そして喉の動きに、ひどく貪欲だった。
三人で乾杯を済ませたあと、男は静かに提案した。
「この近くに、レンタルルームがあります。
ホテルのような完全個室で、安心してお話しできる場所です」
彼女は私を一度見てから、視線を逸らした。
そして、ほんの一秒ほど唇を噛んで——うなずいた。
「……わたし、自分がどう変わるのか、見てみたいの」
その夜の行き先に待っているものが、
これまでの“見せるだけ”とは違う次元にあることを、
私たちは、もう知っていた。
けれど、止まる者はいなかった。
むしろ、その不安が、もっと奥深い欲望の火種になると、知ってしまったから——。
彼女一人を車から降ろし、
「連絡をくれ、迎えに来るから。」
連絡は来なかった。彼女は翌朝早く自宅に送り届けられ、あの男から連絡が来るからと、その夜のことは話さなかった。
夫のもとに届いた一通の動画ファイル。
再生すると、画面には乱れた姿の妻。
ただし、その表情はどこか作られたように、艶めかしく、そして……明らかに“見せている”。
「あなた……怒るよね、きっと。こんな女、最低だと思うよね。だって、他の男に抱かれて……こんなに乱れて……泣くどころか、笑ってる……」
そう言って、わざとらしく涙を流す彼女。
だが、画面の端には、“彼女の演技”を知っている合図が映っている――
いつもは左腕にしている赤いリボン状のブレスレットを、今日は右に。
それは、夫だけが知る秘密のサイン。
夫は思わず息を呑む。
怒りより先に、血が熱くなるのを感じていた。
「ねえ、これを見て……興奮してるんでしょう?
ほんとは……あなたが、そういう顔をするのが、一番好きなの。だから……私、あえて裏切る“ふり”をしてみたの」
彼女は、男の体をまさぐるそぶりを見せるが、挿入はされていない。
画面の男は仮面をかぶっていて、カメラからの演出用に協力しているだけの「舞台装置」。
「あなたのために、ここまで落ちた“フリ”をしてる私……
どう? ちゃんと、壊れて見えてる……?」夫の独白
「こんなに歪んで、狂ってるのに……愛しいとしか思えない。嘘だと知っていても、悔しくて、ムカついて、なのに欲しくてたまらない。ああ、こいつは今、俺のために狂ったふりをしてる。だったら次は、ほんとうに壊してやる。俺の手で」
深夜のリビング。
冷えたウイスキーグラスの向こうに、ノートパソコンの画面が淡く光っていた。
再生ボタンを押すたびに、彼女の「演技」が始まる。
脚を開き、媚びた声で「犯されている」ように見せかける彼女。
だが――目が笑っていない。
あれは、俺に向けられた芝居だ。
それを理解した瞬間、欲情よりも先に、妙な興奮が沸き上がる。
この女は俺のことを、どこまで理解しているのか?
どこまでなら、狂っても許されると、信じているのか?
その夜、彼はメッセージを打った。
次は、俺が観客になる番だ。
お前は舞台に立て。俺が台本を書いてやる。
数日後、メールに添付された一通の招待状。
件名は「密室劇:夜の檻」。
彼女だけに送った、夫からの正式な指令だった。
そこには、こう記されていた。
指定された衣装に身を包み、日時通りに来ること。
スマートフォン・財布・身分証の持ち込み禁止。
会場で渡される仮面を装着し、自らの名を口にしてはならない。
彼女は一度だけ迷った。
だが、迷いは快楽の兆候だと、彼女自身が知っていた。
「ここまで来たら、もう戻れない」――笑みの裏に、火が灯る。
【会場】
会場は古びた地下のスタジオ。入口には鍵がかけられ、扉の内側からガチャンという音がした。
彼女は、ハイヒールと漆黒のボンデージドレス、目元を隠すマスクに身を包み、照明の落とされた一角に導かれる。
そこには、椅子に座った“観客”たち。
みな仮面をつけ、声を発さず、ただ静かに彼女を見つめていた。
夫がいるのかどうかすら、わからない。
それなのに、身体の芯が、じんじんと熱くなる。
「あの人が……見てる。きっと、どこかにいる。
私がどこまで壊れるのか、見届けようとしてる……」
舞台中央には、一つの檻。彼女は無言のまま、その中に入ると、自ら足かせを嵌めた。
見られること、演じること――それが、愛の証になるなら。
「私を、壊して。あなたの目の前でしか、私は堕ちられないの」
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