深夜3時のキッチンに、シャケの焼ける香ばしい匂いが漂う。
テーブルの上に梅干しと焼き海苔、塩と焼けた塩シャケを並べて熱々のご飯でおにぎりを作る。
水筒にお茶を入れたそれらを嬉しそうに受け取った夫が、意気揚々に出かけていった。
釣りに夢中の夫は休日となると前日の夜からソワソワしはじめて、遠足に行く子供のようになる。
斉木唯は夫を送り出すとまた数時間の睡眠を取って、簡単な食事を済ませてシャワーを浴びる。
トートバッグにタオルやスパッツ、キャミソールや下着を手早く詰め込むと玄関を出た。
向かうのはヨガ教室である。
体型維持のためにはじめたことだが、体の調子は思った以上に良くなった。
新陳代謝が良くなるとお肌の調子もいいし、何よりも体のラインが理想的になったのだ。
その結果に望まぬ出来事に遭遇するようになってしまったのは、予想外だったのだけど……。
望まぬ出来事とは…………。
唯は通勤のために30分、電車に揺られる。
半年前から痴漢の被害に合うようになったのだ。
確かにウエスは細くなり、お尻も上を向く綺麗な仕上がりになって喜んでいた。
その結果がこれなんて、唯はあんまりだと思っていた。
スーツを着るわけではないから、服装のレパートリーはそれなりにある。
だからパンツルックで出かけるようにしていたのだけど、さすがに毎日そんな格好ばかりをするのにも限界がある。
だけど相手唯の服装に関係なく、下半身を狙って攻めてくるから厄介なのだ。
いい加減に撃退してやろうと、唯は相手を睨みつけたことがある。
どうして自分を狙うのか、問い詰めてやろうと思ったのだ。
唯は相手を見て、正直いって戸惑いを覚えた。
黒縁の眼鏡をかけたやや長髪の若者が、怯えて俯いていたからだ……。
まじまじとは見ることが出来なかったけれど、ちょっと好みの若い男性だったのだ。
出鼻をくじかれてしまい、唯は前に向き直ってしまった。
憤りはそのままに、振り上げた手を収めた自分に腹がったが後の祭りでしかない………。
そうなると相手は毎朝のように、唯を攻めてくるようになったのだ。
自分の趣味ばかりを追いかける夫は妻である唯を蔑ろにし、ろくに夜の相手をしてくれない。
今更そんな日々に不満を抱くほどでもないつもりだったけれど、寝た子を起こされた気分にもなるというもの……。
何だかんだいっても体は寂しくて、本音をいえば欲しくないわけではないのだ。
ただ夫にどこかで冷めていただけなのだ。
相手の手がお尻を撫で、前に回ってくる……。
ワンピースやスカートを身に着けてきているのは、ジーンズやパンツに飽きたから………。
そう自分に言い訳をして、毎朝手に取ったパンツを置いてスカートやワンピースを身に着ける……。
別に丈は短くはないし、好きだから……。
それだけの理由でしかないと、自分に言い聞かせる……。
その割にラップスカートだったり、前面を上から下までボタンで止めるタイプ、ファスナー付きのワンピースを着るようになっていた……。
そう………唯は密かに望むようになっていた。
毎朝出勤するとトイレに向かい、濡れたアソコを処理しなければならない……。
そんな煩わしさは次の朝にはもう、相手を待ち望む自分がいる………。
スカートの中に入ってきて、ソフトな指使いが唯を夢心地にさせていく………。
イキきそうになりながらイカせてくれず………電車の中でそうなったら実際は困るのだけれど……。
想像の中であれこれといやらしいことをされてしまう………そんなことを思い浮かべ、目的地の駅に着くと後ろ髪を引かれる思いでホームに降りていく………。
そんな日々にピリオドを打ったのは、のめり込む自分が怖かったから……。
転職を考えて会社も辞めてしまった。
求職中もヨガには通い続けていた。
汗を流すとスッキリするし、気持ちが落ち着いたから……。
ヨガ教室には少数だけど男性もいて、顔はよく見ないけれどダンサーがいると小耳に挟んだことがある。
1人体の細いそれらしい男性がいたから、その人だろうと思ったが、特に唯の興味が向くことはなかった。
転職先は以前から興味のあったエステ業界。
専門学校に通い、エステティシャンの募集に飛びついた。
そこはレディースはもちろん、メンズエステも手掛ける業界でも最先端を行くエステサロンだったのだ。
自分の性癖、性欲の強さ、その他諸々……首を傾げたくなるアンケートを取らされたが、男性部門に配属される場合に備えてとのことだった。
興味深い話に釣りの話を聞いて、感慨深いと思ったのだ。
釣りは辛抱強く待つ時間があるから気長な性格の人じゃないと出来ないと漠然とだけど、唯はそう思っていた。
実際はどちらかというと短期な人が向いていると知って、びっくりしたのだ。
釣りの種類は数あるけれど、釣りで待つ間の実情は気持ちの上で攻める時間なのだから気長な性格の人は向かないと………。
メンズエステも同じことが言えて、性的好奇心や性欲の強さ、もっといえばセックスが好きじゃないと向かないらしい……。
なぜなら男性の身体に触れるのだからと……。
あまりに過激な概念だと思ったけれど、好きこそ物の上手なれ……そう唯は理解した。
動物園の飼育員だって、動物が好きじゃないと勤まらない職種の筈……。
これは振るいにかけられていると感じ、唯は正直にアンケート用紙に記入した……。
それはとても人には言えず、夫には決して見せられない言葉の羅列だったけれど……。
木村宏一は、この日も人を探していた。
朝のこの時間、あの人はいつもこの電車に乗ってきていた。
いつからかあの人が気になるようになり、離れた位置から見詰めるだけだけど楽しみになっていた。
綺麗な人だったし、プロポーションは最高だったし……。
それがある日を堺にあの人の表情が曇るようになり、俯くようになったのだ。
そして宏一は気づいた……。
いつもあの人の側には長髪の男がいることを……。
まさかとは思ったが、次の日から2人の側に近づくように努力を続けたのだ。
そして衝撃の事実を知ることになって、とても激しい嫉妬を覚えたのだ……。
はじめはよく見えなかったけれど、自分のいる位置が幸いしたらしい……。
ワンピースを着るあの人の下半身辺りのボタンを外して、手を中に入れていたのだ……。
俯いた顔は目を閉じたり、時々は開けたり……。
虚ろな目が一点を見詰め、少し開いた唇がとてもセクシーで……。
うっとりしていたかと思うと、恍惚として唇の隙間をわずかに開く姿が堪らなくて……。
そんな日々は突然に終わりを告げ、あの人は姿を消してしまった……。
鬱々とした日が続いていたけれど、ダンサーの道に進んだ先輩にヨガに行かないかと誘われたのだ。
男がヨガ?……先輩がヨガをしていたなんて、知らなかった。
体幹が鍛えられて、ヨガはあぁ見えて優れたものだという……。
女性に囲まれてヨガをするのは気が進まなかったが、ものは試しだと怖いもの見たさで体験することにしたのだ。
ヨガ教室は思った通りに殆どが女性ばかり、男性は1割ほどしかいないので恥ずかし過ぎた。
挙動不審だと女性の視線が怖いので平静を装っていたが、慣れるといい眺めなのだ。
女性たちの形の良いお尻を眺められ、よく見ると乳首を浮き出させる美人もいるではないか……。
固い体をプルプルさせていると、なんと探していたあの人がいるなんて………。
こんな偶然があるだろうか……。
先輩に感謝して、しばらくヨガ教室に通い詰めることにしたのだ。
3ヶ月もするとヨガにもついていけるようになり、生徒の数人とお茶をすることもあった。
もっとも先輩のひっつき虫という立場だったが、彼女たちはダンサーである先輩の話が興味深くて、楽しそうにしていたっけ……。
そこであの人の話が出た。
耳をダンボにして興味なさげに聞き耳を立てていると、転職してエステティシャンになったというのだ。
だからいきなり居なくなったのか………。
それもメンズエステも手掛けるお店だというから、宏一はびっくりした。
斉木唯………その名前を覚えたが、どこのお店かもわからない。
分かったとしても支店はたくさんある。
片っ端から問い合わせたとしても、不審者と見なされて警戒されるに決まっている。
やっぱり縁がないか………。
悶々とした気持ちを抱えながら、駅前を歩いていたときだった……。
女性スタッフ ただいま無料期間中です……
体験されていきませんか?……
ヨガの次はエステかよ…………。
宏一は手渡されたチラシを鼻白んで見た。
そこにはお腹の前で両手を重ね、体をやや斜めにして逆V字に居並んだエステティシャンが笑顔を浮かべて写っている。
エステティシャンだけあって綺麗な女性たちばかり……。
中には綺麗な外人もいて目を引いたが、宏一の目は1人の女性に止まった……。
心臓が止まるかと思うくらいの衝撃だった
。
そこにはあの人が笑顔で写っていたのだから……。
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