タクシーが坂を上りきると、突然視界が開けた。
重厚な門柱に控えめに掲げられた表札には、ただ「神楽」とだけ彫られている。
門の奥に続く石畳の私道は、まるで別世界へ誘うようにゆるやかにカーブしていた。
タクシーを降りると圭ちゃんと二人で門の前で立ち尽くす。
インターホンのボタンを押す指先が、なぜか震えた。
「……本当に、ここでいいんだよね?」
圭ちゃんが小声で確認する。スーツ姿の彼は、いつもより背筋が伸びている。
「うん。間違いないよ」
私は深呼吸して、笑顔を作った。緊張をごまかすように。
ブザーが短く鳴り、門が静かに開く。
出てきたのは、神楽様ご本人だった。
黒の細身のパンツに白のシルクシャツ。
袖を軽く捲った腕に、銀の時計がちらりと光る。
まるで自宅でくつろぐモデルのような出で立ちなのに、どこか近寄りがたい気配が漂っている。
「お待たせしました。お二人とも、よく来てくれた」
低く柔らかな声。しかしその瞳は、私たちをまっすぐに見据えていた。
圭ちゃんがぎこちなく頭を下げる。
私は、
「神楽様、今日はお時間をいただき、本当にありがとうございます」
声が裏返りそうになるのを、必死で抑える。
彼は小さく微笑んだ。
その笑みが、まるで「獲物を手に入れた」とでも言いたげに見えたのは、私の思い過ごしだろうか。
「さあ、どうぞ。中へ」
神楽様が一歩退いて、私たちを招き入れる。
背後で門が静かに閉まる音がした瞬間、
私は確かに感じます。
――もう、後戻りはできない。
玄関ホールの大理石の床に、私たちの足音だけが響く。
神楽様は先に立って歩き出す。
背中だけでも圧倒的な存在感がある。背丈は圭ちゃんより頭一つ分高く、肩幅も広い。
私たちは自然とその後に続き、まるで導かれるように進んだ。
廊下を曲がると、突然視界が開けた。
リビングルームは、まるで雑誌の表紙のようだった。
床から天井までの大きな窓。外には手入れの行き届いた庭園が広がり、遠くに東京の街が見下ろせる。
家具はすべて黒と白、そしてグレーのモノトーン。
余計な装飾は一切ないのに、圧倒的な「贅」が漂っている。
「どうぞ、お掛けください」
神楽様がソファを指す。
奥行きのあるL字型のソファ。中央に置かれたガラスのテーブルには、すでに三つのグラスと冷えた白ワインが用意されていた。
圭ちゃんが私を見て、小さく頷く。
私たちは並んでソファに腰を下ろした。背もたれが深くて、少し沈み込む。
神楽様は向かいのシングルソファに優雅に座った。
足を組み、肘を置く。その仕草一つ一つが計算されているようで、息を呑む。
「緊張しなくていいですよ」
そう言われても、緊張は解けない。
むしろ、彼の視線が私に注がれるたび、背筋がぞくりとする。
圭ちゃんが咳払いをして、封筒を差し出した。
「あの……契約書、持ってきました」
神楽様はそれを受け取り、ゆっくりと開く。
中身を一瞥して、満足そうに頷いた。
「完璧だ。さすがだね」
そして、私を見た。
「あなたが書いたんだろう? 字がとても綺麗で、丁寧だ」
頬が熱くなる。
そんなところまで見られていると思うと、身体が火照って仕方ない。
「さて……」
神楽様がグラスに手を伸ばす。
「契約は成立した。これから、陽子は私のものだ」
静かに、しかし確実に告げられた言葉。
その瞬間、リビングの空気が変わった気がした。
重く、甘く、そして逃げられない。
※元投稿はこちら >>