………いってらっしゃい…
今日も夫、雄一を玄関から送り出す。
それから遅れること20分、10歳の長男と7歳の次男を立て続けに学校へ送り出す。
バタバタと朝の朝の慌ただしさが過ぎると朝食の後かたづけ、洗濯を済ませる。
部屋の掃除も終わってしまうと、やることがなくなってしまった。
ソファに腰を落ち着けると見計らったように、愛猫が膝に乗ってきた。猫も飼い主が忙しく動き回っているときは、甘えさせてもらえないことを知っている。ここぞとばかりに撫でてもらい、盛大に喉をゴロゴロと鳴らした。
穏やかな暮らし、金持ちではないがささやかな幸せ………。
矢部瑞江は、ぼんやりと窓の外の庭を見つめた。
花壇に植えた月下美人がいくつも蕾を付けている。この分なら今夜には咲くかもしれない。
夜にしか開花しない膨らんだ蕾を眺め、瑞江は心の空虚感を慰めた。
瑞江は大恋愛の末、夫の雄一と一緒になった。
20歳そこそこの2人を周囲の大人は心配したが、生活が軌道に乗るまで子供は作らず初出産は25になってからだった。
2人目はその3年後、計画的に生んだ。
派手ではないが何不自由のない穏やかな暮らしが10年……どういうわけか最近、物足りなさを感じる。
何が欲しいという具体的な理由は、ない。
夫は優しく良い父親で、良きパートナーだ。
これで不満を言ったらバチが当たるだろう。
強いて言うなら………夜の夫婦生活において、早いことだろうか。
自分に魅力がなくなったのだろうか。
仕事の疲れもあるだろうが、以前ほどの情熱は感じられず義務的に応じているような気がする。
瑞江は持て余す時間を近所にある市営のスポーツジムに当てて、身体を絞るだけではなく鍛えた。
これでも学生時代はダンス部で、ジャズダンスに身を躍らせて男子部員を魅了させていたのだ。
元々太っていたわけではないが、結婚生活でなまり、出産で崩れた体型を戻した。
メイクもしないで競泳水着を身に着けて、プールで泳いでいればそのスタイルの良さに密かな注目を浴びていることに気づく。
女はそういうことに、敏感に気づくものだ。
もう38歳なのか、まだ38歳なのかか。
その迷いは先日のナンパで払拭された。
学生時代の友達と久しぶりに会うことになって、駅前で待ち合わせをしていたら続けてにナンパをされたのだ。
もっとも風俗系のスカウトが中心だったが、中には純粋なナンパも数人いたのには困ってしまった。
遅れて到着した友人には、整形でもした?…なんて冗談を言われた。
彼女は歯に衣着せぬ物言いをする表裏のない性格で、今もそれは変わらない。
スポーツジムに通い鍛えたことを説明したら納得していたが、それにしてもなんでこんなに変わらないのかと、褒めてるのか貶しているのか分からない言い方をされてしまった。
確かに子供が2人いると知ると、びっくりされることは少なくない。
瑞江は、褒め言葉として受け取ることにした。
風俗系のスカウトには辟易したが、女として男性の需要はまだあると自信がついただけで悪い気はしないから。
でも、誰にあるというのか………。
彼女との一時を終え、駅に向かって歩いた。
ショウウィンドウに飾られたトレンドの服を見るともなしに顔を向けた。
するとガラスに映る自分の姿に目がとまった。
ホワイトジーンズにニットを合わせた女は、お尻がキュッと上がり括れたウエストが目を引いた。
微笑んで見せる………彼女はまったく代わり映えがないようなことを言っていたが、もう女の子ではなくてどう見ても女の人だった。
こんな自分に男性は欲情するのかしら……。
瑞江は車窓に映る自分に自問する。
少し離れた位置にいるサラリーマンの男性を見た。
自分よりも若い彼はスーツの上着を脱いで片手に持ち、Yシャツ姿で揺られている。
その腕は逞しく、暑い胸板をしていた。
さぞかし夜は………。
瑞江はあらぬことを想像して、急いで掻き消した。
いくら満足出来ていないからといって、度が過ぎると思った。
浮気をするなんてないし、今の幸せを壊すなんて考えられない。
ホームに降りて改札に向かう途中、産婦人科医院の広告が目についた。
美容外科ではなく産婦人科医院だったから物珍しくて、数秒間だけ足がとまった。
ふ〜ん……文言をさっと読んで、歩き出す。
いくつかの言葉が心に残るなんて、このときは思わなかった。
瑞江は今夜は何にしようか、夕食の献立を考えながらスーパーマーケットに足を向けていた……。
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