佐伯さんが帰ると、明らかに悦子さんの発する声のトーンが下がりました。
それは単純に、夜が遅いから。左右と下の部屋には他の住人さんがいるので、暗黙のルールのようなものがあるようです。
一軒家住まいしか知らない僕には、考えられない世界。壁に耳でもあてようものなら、隣の会話でも聞けてしまいそうです。
そんな悦子さんが、「後藤さん、猫ダメよねぇー?」と聞いてきます。気を利かせた彼女は、ゲージの中へとしまってくれました。
その猫は年老いていて、かなりの年齢。悦子さん曰く、「化け猫になってもおかしくない年」なんて言っていました。
佐伯さんには、「お泊まり?」と聞かれましたが、肝心の彼女の口からは何も聞いてはいません。
淡々と片付けをしてるだけで、僕には何も言っては来ないのです。
そんな時、「後藤さん、会社帰り?」と聞いて来ました。「そうです。」と答えると、「ごめんなさいねぇ。」と謝られます。
おそらく彼女は、僕が帰宅をした自宅からやって来たのだと思っていたようです。
「お風呂入らせてあげたいけど…。」、時間はもうすぐ11時。きっと、もうルールで入れない時間なのだと思います。
猫のいる部屋に敷かれた布団。そして、飲み会をした部屋にももう一つの布団が敷かれました。
これで彼女の気持ちが分かります。「泊まっていけ。」なのです。
お風呂を気にしたのは、もしかしてこれからのことだったのでしょうか。
そんな僕に悦子さんが持って来たのは、熱い濡れタオル。「風呂に入っていない身体をそれで拭け。」だと理解をしました。
午後11時を回り、「よかったら、もう寝て?」と進められました。彼女は向こう、僕はこっちの部屋で眠るようです。
部屋の仕切りが閉じ、やっと自分だけの空間が持てた僕は作業着を脱ぎ、最低限の脱衣を始めました。
そして、もらった濡れタオルで身体中の汚れを擦り落とします。季節は夏、仕事では当然汗を掻いていました。
そして、就寝をします。
他人の家は馴染めず、ウトウトは出来ても眠るまでには至りません。アパート内の物音も気になって、寝つけないのです。
仕方なく、起きてスマホを手に取りました。スマホでも触っていたら、そのうちに寝落ちするだろうと思ったからです。
ヤフーニュースでも開いて、睡魔に襲われるのを待ちます。
スマホを触り始めて、どのくらいが経ったでしょう。時間を見れば、深夜1時を過ぎています。
その頃には悦子さんのことなどもう眼中にはなく、「明日のために早く寝たい。」となっていました。
そんな時でした。「後藤さん…?」と籠った声が隣から聞こえて来ました。悦子さんです。
何も考えない僕は、「はい?」と返事をしてしまいました。すると、扉が開いて、彼女がこちらを見ます。
そして、「よかったら、私もそっちで寝させてもらってもいい?」と聞いて来たのです。
自分の枕を抱えて、部屋へと入って来る彼女。普段着に近いラフな寝間着は身体を隠さず、とても細いです。
大きめの顔は、その細くて小さい体型には似合わず、「写真で見る宇宙人」って印象です。
彼女を同じ布団に普通に迎え入れますが、緊張しない訳がありません。
しかし、僕と違って彼女は身体を寄せてきて、手と足を僕の身体に乗せて来ます。
そんな彼女の方を見ることが出来たのは、何分後だったでしょうか。
眠っていました。51才とは思えないあどけない顔をして。
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