【9】
10年分ともなると、やはり重い。
由英が居なければ再び往復するハメになっていただろうが、もう少しで事務室に着きそうだ。
目的地の扉を視認し、安心する幸子。
その扉から、ある人物が出てきた。
「おぉ、重そうだね。これは、時間が掛かるな。」
矢島の他人事の様な言葉に、幸子はまた腹が立つ。
そんな言葉は、更に続いた。
「済まないが、よろしく頼むよ。
おっと、もうこんな時間か。
私は、これから打ち合わせがあるんでね。
先に帰らせてもらうとするよ。」
幸子に伝えると、矢島は去った。
どうせ、打ち合わせと称した宴会だろう。
恐らく、原井も一緒かもしれない。
気楽なものだと、幸子は呆れる。
だが、少し意外でもあった。
職員のシフトは、矢島が決めているからだ。
遅番に組んでもいいと申し出たのは幸子本人だが、不安もあった。
矢島が淫らな感情を向けているのは、知っている。
由英を早番に組むと、邪魔者は居なくなる。
つまり、今日は幸子に卑猥な欲望を仕掛けるチャンスなのだ。
恭子にしても邪魔な存在であるはずなのに、残業させている。
もちろん、原井の機嫌を損ねてはいけないというのはあるだろう。
何としても、今日中に完成させる為に恭子を残したと考えれば納得は出来る。
しかし、それだけではない。
由英を一緒に資料室へ行かせた事も、不可解だった。
いつも由英と会話していると、矢島は決まった様に割り込んでくる。
書類が多いから自分も手伝う、と幸子を独り占め出来たはずだ。
拍子抜けしたといえばおかしいが、いつもの矢島とは違っていた。
普段の矢島は、あくまで所長として部下を気遣っていただけなのか。
自分は少し自惚れ過ぎなのか、と幸子は少し恥じらった。
とはいえ、矢島が嫌悪対象な事に変わりはない。
その矢島が居ないなら、面倒な作業でも打ち込める。
由英に優しい言葉を掛けられ、幸子と恭子は作業に取り掛かった。
だが、最後に見せた矢島の視線はやはり尋常ではなかった。
あの視線が、いつにも増して淫らなものに思えてならない。
女としての勘なのか、何ともいえない違和感を抱きながら幸子は作業を進めた・・・。
19時を過ぎ、由英が帰ってから2時間が経った。
遅番の就業時間も終わり、他の男性教官達は既に帰った様だ。
恭子の存在もあってか、幸子に接触を試みる者は居なかった。
教習所には、幸子と恭子の2人だけである。
肝心の作業だが、確認してみると破れた書類はかなりあった。
それも、ほとんどが少しずつだ。
何だか奇妙な破れ方に、幸子は不審に思っていた。
以前見たのは、ほんの数日前だ。
その時は、ここまで破れていなかったはずだ。
誰かが破ったわけじゃあるまいし・・・。
怪訝的な現象だったが、幸子は余計な事を考えずに黙々と作業を続けた。
手を休めれば、いつまで経っても終わらないのだ。
休憩もせず、作業を進めた幸子達。
その甲斐もあってか、ようやく終わりが見えてきた。
恐らく、30分程あれば完了するだろう。
「この調子なら、20時前には終わるんじゃない?
恭子ちゃん、残業してもらって悪かったわね。」
幸子からすれば不可抗力だが、恭子には申し訳なかった。
「気にしないでください。
1人でこんな作業してたら、深夜になっちゃいますよ。
それに残業代も出るし、明日は休みですから。
私より、幸子さんの方が早く帰りたいんじゃないですか?
お家で、優しい旦那さんと可愛い息子さんが待ってるんだから。」
「こら、からかわないの。
とにかく、早く片付けて帰りましょ。」
恭子の人懐っこい性格に、幸子は助けられた。
もう少し頑張れば、家族が待つ家に帰れる。
幸子は家族を思い浮かべて、もう一息だと気合を入れた。
しかし、その時だった。
電話の着信音が、鳴ったのだ。
教習所の固定電話でなければ、幸子の携帯電話でもない。
どうやら、恭子の携帯電話だ。
だが、携帯電話の画面を見て相手が分かると恭子は当惑した表情を見せた。
「えっ、何だろう。」
一言ボソッと発し、恭子は電話に出た。
「もしもし、お疲れ様です。
・・・・・えーっと、あと30分位で終わると思います。
・・・・・はい、幸子さんも居ます。
・・・・・えっ、はい。
ちょっと、待ってください。」
恭子は、立ち上がると矢島のデスクに向かった。
「・・・・・あっ、ありました。
・・・・・今からですか?
・・・分かりました。」
不服そうな表情で、電話を切る恭子。
電話の内容を聞いて、幸子は納得した。
「誰からだったの?」
「所長からで、作業の進捗状況を聞かれました。」
「全く、呑気なものね。
どうせ、まだ宴会中なんじゃない?」
「みたいですね。
それで、ちょっと申し訳無いんですけど・・・少しだけ抜けてもいいですか?」
恭子は、済まなそうな顔で幸子に尋ねた。
「何かあったの?」
「どうも、接待中の相手に今すぐ見せたい書類があるらしくて。
でも、デスクの上に置いたまま忘れていったそうなんですよ。」
「だから届けてくれないか、って事?
もう、どこまで勝手なのかしら。
・・・それで、宴会場は何処なの?」
「いつもの旅館みたいです。」
「森浦旅館ね。」
田舎町だが、他県からも宿泊に訪れる程の人気旅館だ。
風情のある佇まいで、宴会には最適な場所である。
決して安くはない場所で、宴を楽しむ矢島。
一方、教習所で遅くまで残業をする幸子と恭子。
これが現実かと思うと、幸子は虚しくなった。
何より、恭子が可哀想だ。
朝から夜遅くまで仕事をしているのだから、相当疲れているに違いない。
すると、幸子はある事に気付いた。
「その書類、恭子ちゃんに頼んだのよね。」
「はい。」
「じゃあ、書類を渡したらそのまま帰っていいわよ。」
「えっ、でもまだ終わってませんし。
あと少しだとしても、1人じゃ大変ですよ。」
「ここまでやれば、さすがに1人でも20時位には終われるでしょ。
ファイルもほとんど資料室に戻したから、後片付けは簡単だし。
もう、充分助けてもらったわ。」
恭子を、妹の様に感じている幸子の気遣いだった。
「本当に、大丈夫ですか?」
「えぇ、問題無いわ。
ほら、早く行かないと所長に嫌味言われるわよ。」
恭子は、幸子の優しさに甘える事にした様だ。
「それじゃあ、お先に失礼します。」
「お疲れ様。」
外に出た恭子の車のエンジン音が、聞こえている。
そのエンジン音が、小さくなっていく。
正直、この時間に教習所で1人は不気味だった。
山の中腹で、周りに建物は無い。
しまいには、雨まで降ってきた。
外から聞こえるのは、雨音だけである。
早く終わらせようと、幸子は作業を急いだ。
「・・・やっと終わった。」
20時に迫ろうとしていた頃、ようやく全て終了した。
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