【8】
この日の服装は濃紺スーツで中に白いYシャツ、スーツとセットの濃紺スカートにベージュのストッキング、靴は黒いハイヒールという出で立ち。
教習生と関わる機会は無くなったが、矢島はもちろん他の男性教官達からの豊乳や肉尻に向けられる淫らな視線は、本日も相変わらずだ。
出勤早々、不愉快な気分だったが1人の人物によって幸子は笑顔を見せた。
「お勤めご苦労様です、幸子。」
「たった今、出勤したばかりよ。」
当然、由英だった。
ちょうど、昼休憩に入るところだったらしい。
由英とのおどけた会話で、幸子は憂鬱な気持ちが吹き飛んだ。
仕事にも気合が入り、自分のデスクに向かうと隣には既に恭子が居た。
同じ事務員で、幸子自身を除けば職場内の女性は恭子だけである。
古川恭子(こがわきょうこ)、30歳、独身で外見は幸子に遠く及ばない。
幸子が森浦教習所に勤め始めた翌年、入社。
事務員としては幸子より長いが、幸子にとっては可愛い後輩だ。
他の男性教官は幸子に対してと違い邪険に扱っているが、幸子と由英は優しく接していた。
事務作業も丁寧に教えてくれたり気遣いも出来て、男達だらけの職場の中で幸子には必要不可欠な存在だ。
この日の恭子は早番で、17時までとなっている。
由英と恭子が居ない残りの時間は警戒対象者ばかりで少々不安だが、2時間位なら何とかなるだろう。
幸子は普段と変わらない日常が約束されていると信じ、事務作業に没頭した。
そして、あっという間に17時を迎えた。
由英は、報告書作成等のデスクワークをしている。
そろそろ終えて、帰宅するはずだ。
恭子も、もうじき終わるだろう。
すると、矢島がやってきた。
「古川君、済まないんだが少し残業してくれないか。」
こんな帰る直前で、何を言うのだろう。
聞いていた幸子も、呆気にとられた。
「所長、何かあったんですか?」
近くに居た由英も、気になった様だ。
「あぁ。たった今なんだが、原井相談役から連絡があってね・・・。」
その内容に、幸子は更に唖然とした。
事の顛末は昨日、応接室で決算書を見た時らしい。
町の予算から補助金を出すとはいえ、勝手に決めてしまうのは幾ら相談役の立場でも難しい。
施策はほぼ一任されているが、押し切ってしまえば問題になるのは必至。
つまり、他の町議員や町長を納得させなければいけない。
そこで原井が考えたのは、重要書類を町議員と町長に開示するというものだった。
教習所内に保管している決算書等を見せ、不透明な部分を無くせば追及されない。
後は原井が説き伏せ、認めさせるというのだ。
要するに、そのきっかけを作ればいいらしい。
だが、原井の指令はここからだった。
「昨日、決算書を見た時に破れてる箇所がいくつかあったそうでね。
資料室にあるファイルを見せるつもりなんだが、破れてる書類は廃棄して、新しくコピーしたものをファイルにまとめてほしいんだ。
そういった重要書類の保存状態がしっかり出来ていないと、経営状態までデタラメだと思われてマイナスに働くらしい。
来週の月曜日に、適正テストが行われるだろ?
その時に、チェックしたいと仰ってるんだ。」
原井の言う事は、確かに一理ある。
綺麗に整理出来ていないと、疑われるのは当然だ。
それに、決算書の破れた書類を取り替える位なら何とかなるだろう。
残業とはいっても、長時間にはならないはずだ。
自身も手伝って早く終わらせようと、幸子は矢島に確認した。
「決算書は、何年前から調べればいいんですか?」
「ん~、それなんだがね。
月次決算と年次決算、それから会計帳簿と経費の支払証明書。
教習所の保管分、全てを見てもらうらしい。
だから、幸子君にも手伝ってほしいんだ。」
「えっ、全部ですか!?10年ありますよ!!」
幸子は、つい口調が強くなってしまった。
それも、当然の反応だ。
教習所は、重要書類を10年保管しているのだ。
破れた書類を新しくコピーすればいいだけとはいっても、10年分はあまりにも多過ぎる。
ただでさえ、通常の事務作業だってあるのだ。
明日は日曜日だし、終わらせるには今夜しかない。
恭子と2人で今から始めても、数時間は掛かるだろう。
どうして、もっと早く言わないのか。
そもそも、補助金は町長や町議員に確認をとる必要は無いと自分で言ったはずだ。
やはり、昨夜の不安は的中した。
こんな所にも、原井のいい加減さが表れていた。
とはいえ、やるしかない。
やらなければ、教習所存続の件を白紙にする可能性だってあるのだ。
幸子は苛立ちを抑え、恭子と決算書等が保管してある資料室へ向かおうとした。
しかし、矢島が意外な言葉を由英に掛ける。
「牧元君、もう自分の仕事は終わったんだろ。
君も、一緒に付いて行ったらいいんじゃないか?
資料室から諸々の書類を全部持ってくるのは、重いだろうしね。
奥さんに、協力してあげるといい。」
由英を加え、幸子と恭子の3人は事務室を出た。
すると、廊下を出るなり幸子は我慢出来ずに愚痴をこぼす。
「一体、何様のつもりなのよ!!
こっちの都合なんて、眼中に無いのかしら!?」
「幸子さん、所長に聞こえますよ。
一応、所長の知り合いなんですから。」
笑いながら、幸子を宥める恭子。
幸子も、信頼している2人の前では本音が出てしまう。
「あっ、すいません。先に行ってて下さい。」
恭子が小走りで向かった場所は、どうやらトイレらしい。
「俺も手伝うよ。1人でも多い方がいいだろ?」
そう言ったのは、由英だ。
確かに、3人居れば早く終わるかもしれない。
しかし、幸子にはそれ以上の心配事があった。
「晶の晩ご飯、どうするの?
あの子は、まだ1人じゃ作れないでしょ。」
「そうだ、忘れてた。
でも、なかなか大変な作業だぞ?」
「まぁ、恭子ちゃんには悪いけど2人で何とか頑張るわ。
あっ、今夜はハンバーグよ。
下味は付けてるし、後は焼くだけの状態で冷蔵庫に保存してあるから。
それと、晶に野菜をちゃんと食べさせてね。」
「はいはい、分かってるよ。
これじゃあ、お前が居なくても好き嫌いなんて出来ないな。」
由英の言葉に、幸子は笑顔で応える。
残業を考えると憂鬱だったが、家族の事を想えば頑張れるというものだ。
その後、恭子もやってくると資料室から大量のファイルを運び出した。
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