【3】
「おかえり~、遅いよ母さん。もう18時だよ。」
「ごめんね、晶。色々あって、帰ってくるのに手間取っちゃったのよ。
すぐ準備するから、待ってて。」
牧元晶(まきもとあきら)、小学6年生、幸子の1人息子で4月から中学生になる。
幸子にとって、かけがえのない存在だ。
晶の為なら、どんな事でも耐えられる。
幸子は、本気でそう思っていた。
そして、今日はその晶の誕生日なのだ。
幸子の中でも、大イベントといっていいだろう。
自室へ行き、スーツ姿から普段着に着替える幸子。
黒いセーターに濃い目のジーンズ、扇情的な肉付きは相変わらず隠せないが主婦としての一面が垣間見える。
肩まで伸び、ボリューム感のあるウェーブが緩やかに掛かった茶褐色の髪。
その髪も後ろで結び、臨戦態勢は整った。
仕事モードから母親モードに、気持ちを切り替えた様だ。
今夜の料理は、晶の大好物ばかりである。
晶の笑顔を見れば、疲れも吹き飛ぶだろう。
幸子は、慣れた手付きでどんどん料理を作った。
小一時間で、何品もの料理がテーブルに並べられていく。
残るは、もう1人の登場を待つだけだ。
すると、車のエンジン音が聞こえてきた。
どうやら、到着したらしい。
急いだ様子で玄関が開くと、なだれ込むように台所へ入ってきた。
「ごめん、ちょっと時間が掛かり過ぎた!
準備は・・・・・もう終わったみたいだな。」
「まぁ、副所長さんですものねぇ。
忙しくて帰りが遅くなるのも、仕方無いわよねぇ。」
皮肉めいた言葉をかける幸子だったが、笑みを浮かべた顔は愛情に満ちている。
「悪かったよ、後片付けは俺も手伝うから。
おっ、美味そうな料理だ。早く食べたいな。」
幸子が怒っていないのを知りながら、わざと機嫌を窺う素振りを見せる男。
相思相愛の仲である事は、2人の会話でよく分かった。
牧元由英(まきもとよしひで)、48歳、森浦教習所副所長、晶の父親であり幸子の夫、つまり幸子とは同じ職場に勤めている。
先程、幸子が教習所から帰宅する時に会話していたのは由英だった。
幸子にとって、由英と晶の存在は何よりも大切な絆だ。
2人の笑顔を見続けたい、幸子は常にそう思っていた。
今夜は、その笑顔が多く見れそうだ。
由英が帰宅し、晶も揃うと誕生日パーティーが始まった。
幸子の作った料理を、美味しそうに頬張る由英と晶。
ひと通り食べ終えると、誕生日には欠かせないケーキが登場した。
幸子が帰りに立ち寄ったのは、頼んでいた誕生日ケーキだったのだ。
晶の12歳の誕生日、今年も喜んでくれたらしい。
幸子と由英は2人で顔を見合わせ、息子の誕生日パーティーの成功に安堵した。
その後、誕生日パーティーはお開きとなり、晶は自分の部屋に籠もっていた。
早速、誕生日プレゼントのテレビゲームをしている様だ。
台所は、由英の手伝いもあって案外早く片付け終えた。
「お茶でも淹れようか?」
由英の気遣いに、幸子は甘える事にした。
温かいお茶を飲み、ようやく一息つく幸子。
「お疲れ様。仕事と家事の両立は、大変だよな。」
「そうね、予想以上だったわ。
でも晶も中学生になって、これからは手も掛から なくなると思うとちょっと寂しいわね。
それに、あの笑顔を見たら疲れも吹っ飛んだわ。」
「ハハッ、頭が上がらないな。
俺は幸せ者だよ、こんな女性を嫁にもらって。」
「あら、褒めても何も出ないわよ。」
笑みを浮かべる幸子に、由英は少し真剣な表情を見せた。
「本当だよ。・・・幸子には、色々辛い目に遭わせてしまった。」
由英の言葉で、2人は自ずとこれまでの出来事が脳裏に蘇ってきた。
元々、2人が出会ったのは別の教習所である。
由英が既に教官として働いていたところへ、幸子も教官として勤務したのだ。
そこで、2人は惹かれ合った。
以前から男達の卑猥な視線や感情に苦しめられていた幸子にとって、由英は新鮮な存在だった。
幸子を1人の女として見ており、心から愛している。
それが、幸子にも伝わったのだ。
しばらくして、2人はめでたく結婚となる。
転機が訪れたのは、晶の出産だった。
育児が落ち着いたら、職場復帰するつもりでいた幸子。
だが、当時は由英1人でも家族を養えるだけの十分な収入があった。
それに、由英には以前から夢があったのだ。
家族が出来たら、自然に囲まれた土地で暮らしたい。
ゆとりのある生活、由英の憧れだった。
幸子は田舎での暮らしに少し不安はあったが、最終的には由英の気持ちを尊重した。
由英を愛し、信頼しているからこそやっていけると判断したのだ。
そして2人は当時の教習所を退職し、教官を募集していたこの森浦町へ移り住んだというわけだ。
自然に囲まれた暮らしも悪くない、幸子も最初は満足していた。
しかし、田舎暮らしはそう甘くなかった。
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