【11】
メールの日時は、今日の17時15分。
由英が帰ったのは、資料室から3人で大量の書類を運び終わった17時半頃なので、まだ教習所に居た時間だ。
『月曜日に予定していた適性チェックに関してですが、原井にどうしても外せない案件が入りました。
突然で申し訳ありませんが、今晩20時に変更させていただく事は可能でしょうか。 秘書石岡』
『了解しました。
では、今晩20時にお待ちしております。』
メールの内容からも分かる様に、由英は確認後に返信している。
秘書の石岡という人物は恐らく昨日一緒に来ていた男だろうが、そんな事はどうでもいい。
どうして由英は帰ってしまったのか、幸子の頭の中にあるのはそれだけだ。
帰り際の由英を思い返したが、気になる様子も無く普段通りだった。
本当に、うっかり忘れて帰ってしまったのだろうか。
どちらにしても、由英に直接聞いた方がいい。
幸子は、自身の携帯電話を取り出した。
連絡先は、もちろん由英の携帯電話だ。
耳元で、コール音が鳴っている。
しかし、いつもはすぐ電話に出る由英がこんな時に限ってなかなか出なかった。
(もしかして、入浴中?)
そう思った幸子は、すぐに電話を切る。
すかさず、次の連絡先へ電話をかけた。
同じ様に耳元でコール音が鳴っていると、今度は繋がった。
「もしもし、牧元です。」
聞き慣れた声の主は、幸子にとってかけがえのない人物、息子の晶だった。
携帯電話が駄目ならと、幸子は自宅に電話をかけたのだ。
本来なら、晶とゆっくり会話をしたい。
だが、今は一刻も早く由英に事情を伝えなければならないのだ。
「もしもし、晶。
お母さんだけど、お父さんにすぐ代わってくれる?」
「あっ、母さん。父さん?父さんなら居ないよ。」
「えっ、どういう事!?」
「1時間くらい前に、矢島さんて人から電話があってさぁ。
森浦旅館で誰かと一緒にお酒を飲んでるから、来てくれって言われたみたいなんだ。
父さんの話だと、仕事の用件を伝えるだけだって。
帰ってくるのは、多分21時くらいになるって言ってたよ。」
つまり、やはり由英は完全に忘れていたという事だ。
考えられない大失態だが、それが事実である。
とはいえ、しっかり者の由英だって人間だ。
最近の由英は、教習所存続の為に忙しく働いていた。
存続の目処が立った事で、気が緩んだとしても不思議ではない。
夫が尽力してきたのを近くで見てきた幸子だからこそ、由英を責める事は出来なかった。
携帯電話が繋がらなかったのは、きっと接待中で気付かないのだろう。
森浦旅館に電話して、由英に伝える方法も考えた。
しかし、幸子は思い止まる。
冷静になってみると、由英が急いでこちらに向かったとしても、手遅れだ。
原井は、約束をすっぽかした者を許しはしないだろう。
こうなった以上は、どうにもならない。
正直に話し、謝罪しよう。
妻として、夫の代わりに過失を詫びる事を幸子は決めたのだ。
当然、原井は憤慨するだろう。
先程の言葉も、頭をよぎっている。
それなりの処分とは、どの程度なのか。
町の相談役で教習所の経営にも関与する原井なら、余程の権限を与えられているに違いない。
冗談でそんな事を言う人物じゃないのは、承知済みだ。
補助金の話や、もしかしたら由英の減給や降格等、様々な事態を考えると悲観的になってしまう。
だが、そんな幸子を電話先の声が救った。
「もしもし母さん、大丈夫?」
「えっ?・・・あっ、何でも無いわ。大丈夫よ。
・・・・・そんな事より晶の方こそ、こんな時間に1人でお留守番してて平気なの?」
「母さん、俺もう中1だよ。
2、3時間ぐらいで怖がるわけないじゃん。」
「・・・そうね、子供の成長なんてあっという間よね。」
「何言ってんだよ、留守番ぐらいで。
それに、母さんだってもうすぐ仕事終わるんじゃないの?
帰る時に、また連絡してよ。
ハンバーグ温め直しておくからさ。」
「・・・えぇ、頼むわね。」
息子の晶の声で、幸子は平常心を取り戻した。
土下座をしてでも、原井に許しを乞わなければならない。
家族の生活を、守る為に・・・。
電話を切ると、幸子の表情は吹っ切れていた。
普通の女なら、こうはいかないだろう。
気丈な幸子だからこそ、こんな状況でも耐えられるのだ。
事務室を出て、応接室に向かう幸子。
扉の前に立ち、深呼吸すると意を決して扉を叩いた。
そして、地獄が待ち構える応接室へと入っていく。
太々しい態度で、ソファーに座っている原井。
幸子が部屋に入ってくるなり、怪しい笑みを浮かべている。
すると、原井は早速問い詰める様に幸子を尋問した。
「で、どうだったかな。
首尾を聞こうじゃないか。
まさか、この期に及んで私の勘違いだと言うんじゃないだろうね?」
当然、原井は確信している。
潔く非を認め、謝罪するしかない。
「仰る通り、主人のパソコンにメールのやり取りがしっかり残っていました。
完全に、落ち度はこちらにあります。
申し訳ありませんでした。」
幸子は、原井に頭を下げた。
「フン、随分と高い所からの謝罪だな。
まぁ、土下座をさせる趣味は無いがね。」
入口付近で立ったまま謝る幸子に、原井は皮肉な言葉で返す。
立場が悪い幸子は、何も言い返せない。
更に、原井は横柄な仕草で幸子に話し掛けた。
「とりあえず、そこに突っ立ってるのも何だ。
こっちで話そう。さぁ、座りなさい。」
幸子を手招きする原井の姿は、まるで独裁者だ。
不愉快なのは言うまでもないが、従うしかない。
幸子は怒気を抑え、ソファーへ歩を進めた。
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