【10】
さすがに3時間も休憩無しで作業をすると、疲労困憊だった。
こんな時は、家族の笑顔に限る。
由英と晶の顔を見れば、疲れも吹き飛ぶだろう。
それに、明日は家族で出掛ける予定だ。
原井の無茶な指令のせいでこんな大変な目に遭ったが、そのご褒美だと思えば良しとしよう。
明日の仲睦まじい光景を思い描きながら、幸子は帰り支度をした。
戸締まりと電気の消し忘れも確認したので、問題無いだろう。
事務室の明かりも、忘れずに消す。
建物内で点いているのは、職員専用裏口へ続く狭い廊下の照明だけだ。
裏口に着くと外灯の明かりを点け、幸子は廊下の照明を消した。
建物内が真っ暗になり、異様さが一段と増す。
さっさと帰ろうと、外に出て鍵を掛ける幸子。
すると、その時だった。
「ほぉ、今お帰りかな?」
後ろから声を掛けられ、幸子は驚いて振り返る。
聞き覚えのある声に、まさかとは思った。
それは、最も招かれざる者と言っていい人物だ。
幸子がこんな時間まで働かされる羽目になった元凶であり、初めて会った時から危険人物として警戒せずにはいられなかった。
矢島と同様の淫醜な空気を醸し出す男、原井だったのだ。
どうしてこの男がここに居るのか、ましてやこんな時間に・・・。
雨音のせいで、車のエンジン音にも気付かなかったらしい。
確実に言える事は、原井と2人きりのこの状況は絶対に避けたかった最悪の事態だ。
幸子は、言葉が出ない。
そんな幸子に、原井はもう一度問いかけた。
「おや、私の声が聞こえなかったのかな?
帰るのか、と言ったはずだがね。」
原井の表情が、変わった。
すぐに返答しなかったのが、気に入らなかったらしい。
やはり、人格はかなり厄介だ。
機嫌を損ねない様に、幸子は慎重に話し掛けた。
「はっ、はい。残業をしてたもので。」
「なに、こんな時間まで残業?
それは、ご苦労だったねぇ。
だが、過重労働はいかん。
矢島くんに、しっかり言い聞かせないとな。」
残業の原因を言ってやろうか、と幸子は腹を立てたが何とか抑えた。
それよりも、今はここへ来た理由だ。
「とっ、ところでどうしてこんな時間に?」
「どうしてって君ねぇ、おかしい事を聞くじゃないか。
例の、教官適性チェックの為に決まってるだろ。」
「えっ?そっ、それって月曜日のはずでは?」
「どうしても外せない予定が入ったんだ。
だから今晩にしようと伝えたんだが、どうやらすっぽかされたらしいね。」
いくら予定が入ったとはいえ、何故わざわざ見えづらい夜に変更したのかは疑問だ。
しかし、気になるのはそのすっぽかしたという人物である。
大方の予想はつく。
そんないい加減な人物といえば、矢島しかいない。
分かってはいたが、幸子は原井に尋ねた。
「一体、誰がそんな失礼な事を?」
「何を言ってるんだ。
君の旦那しかいないだろう。」
「えっ!?」
驚くのも、当然だ。
由英から、今夜に変更になったとは一言も聞かされていないからだ。
何より、約束をすっぽかす様な無責任な人ではない事は幸子がよく分かっている。
きっと、原井が勝手に勘違いしているに違いない。
再び腹が立った幸子は、思わず口調が荒くなった。
「お言葉ですが、主人はそんないい加減な人ではありません。
本当に、連絡を入れたんですか?」
我慢出来ず、原井に反抗的な言葉をぶつけてしまったが、妻として許せるわけがなかった。
こんな状況でも、由英の潔白を主張する幸子。
まさに、夫婦の絆の証といえる。
だが、やはり原井はこの態度に黙っていなかった。
「まさか、君は私が勘違いしているとでも言うんじゃないだろうね。
随分、嘗められたものだな。」
傲慢な姿が、更に増した様だ。
そして、次に原井の口から出た言葉は思いもよらぬものだった。
「それじゃあ、証拠を見せようじゃないか。
旦那のパソコンを調べてみろ。
私の送ったメールがあるはずだ。
それと、旦那の返信メールもな。」
原井は、証拠があると言い切った。
確信がなければ、普通はありえない反応だ。
しかし、幸子も由英に限って約束をすっぽかすとはどうしても思えなかった。
こうなったら、由英のパソコンを調べるしかない。
「分かりました。
主人のパソコンを確認してみます。」
幸子の言葉に、ほくそ笑む原井。
「ではその間、私は応接室で待つとしよう。
いいね?」
幸子は頷き、再び鍵を開けて建物内へ戻る事になった。
原井を応接室へ案内し、事務室に向かおうとした幸子。
すると、原井に呼び止められた。
「念の為に言っておくが、メールが確認出来た時は・・・・・それなりの処分は覚悟しておきたまえ。」
その瞬間、幸子は身の毛がよだつ感覚に陥った。
見え隠れしていた原井の本性が、顕著に表れたからだ。
これまでも、この男に苦しめられた者達は大勢いるに違いない。
普通の女なら、怯んでしまうだろう。
ところが、幸子の負けん気は人並み以上だ。
こんな男の高圧的な態度に屈するなど、絶対あってはならない。
原井の脅迫めいた言葉に、幸子は何とか怒りを抑える。
逆にメールが確認出来なかった時は、ふんぞり返った自尊心を批難してやるとさえ思った。
事務室の明かりを点けた幸子は、由英のデスクへ向かう。
デスクに着くと、由英のパソコンを起動させた。
どうせ原井の誤解だと思いながら、幸子はメールボックスを確認する。
だが、映し出されたパソコン画面に幸子は言葉を失ってしまった。
何故なら、そこには原井と由英のメールのやり取りがしっかりと残っていたからだ。
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