『ポタッ…、ポタッ…、』
静かなお風呂、浴槽の中へと落ちる滴の音。それは、洗ったばかりのひろみさんの髪から落ちています。
浴槽にもたれ掛かり、彼女を背後から抱き締めている僕。ベッドではそうでもないのに、ここにいるとその不自然さを感じてしまう。
目の前に見える背中や肩には多くのホクロ。横顔を覗き込めば、そばかすだらけの丸い顔。それは、間違いなくひろみさんだった。
その人を背中から抱き締め、前で交差をした僕の手は彼女の乳房へとあてられています。
(いつから、この人とこんなに仲良くなったのだろう…。)
数年前、数ヶ月前にはとても考えられなかった劇的な変化を不思議に思うのでした。
『ひろみさん?』
その背中に声を掛けると、彼女からは『はい?』といつもの丁寧な返事がかえされる。
(結婚したい。一緒になりたい…。)、口から出そうになるのを抑え、僕はこんなことを言うのです。
『あと5分で出ましょう。だから5分だけ、ユウちゃんの話を聞かせてください。それ以上は聞きませんから。』
『ユウちゃん。』とは、9歳年上だった僕の兄貴の名前。つまり、ひろみさんが亡くした旦那さんということになる。
本名はユウジ。僕は『ユウちゃん』と呼んでいたが、彼女は『ユウジさん』と丁寧に呼んでいた。彼女の方が4つも年上なのに…。
もちろん、たったの5分で語れるものではありません。ただ、僕には聞く必要と権利があったのです。
ひろみさんと兄が出会ったのは、彼女が33歳の時でした。兄の勤めていた小さな会社に、彼女が入社をしてきたのです。
真面目な彼女ですが、正直仕事の方はどうでしょう。几帳面さがジャマをして、思い通りには進まなかったみたいです。
『あの~、私、明日出勤をしてやっておきますから。』、遅れを気にした彼女は日曜日を返上をして業務をこなすのです。
ちょうどそんな時、兄も日曜日に家をあけることが増えました。内緒で彼女のいる会社へと向かっていたのです。
特に手伝う訳でもなく、『僕も仕事があるから。』とその横で自分の仕事をする兄貴。女性に対して、不器用なのが分かります。
『変わり者』。以前、兄のことをそう書きました。ただ、それは天才の裏返し。兄は、弟の僕でさえ分かる天才肌でした。
変わり者と見る方もいますが、それは本当の兄を知らない人達。会社では、とっくにエースだったのです。
それはもちろん、ひろみさんにも分かりました。兄の才能を認め、尊敬すら感じてしまいます。
彼女が『ユウジさん』とさん付けをするのは、そのためなのです。
『兄貴、天才だったからなぁ~。』
そう言いながら、湯船から立ち上がる僕。据わる彼女に手を延ばし、一緒にお風呂から出ます。
バスタオルで身体を拭きながら、『勝てんよなぁ~。勝ってるところって、あります?』と彼女に聞いてみます。
もちろん、ひろみさんが僕を悪く言うはずもなく、いろいろといいところを誉めてくれますが、その中にこんなことがありました。
『あと、内緒の話ですけど…。ユウジさんは私が初めてでした。ヨシ兄さん、勝ってますか?』
知らなかった。兄は彼女と出会うまで女性を知らなかったようです。勝ったのかな?
初めて聞けた兄と彼女の話。結婚をするなら、避けては通れない問題でもあり、聞いてしまいました。
しかし、そこでまた課題が見つかったことも確かです。それは、僕とひろみさんの間で決定的に掛けているものでした。
それは『思い出』。愛し合うには、お互いに思い出がなさ過ぎるのです。
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