柿崎さんは医療事務の前は介護ヘルパーをしていて、僕の実家にも訪問していた。それが出会いのきっかけで、もう5年が経つ。僕は実家から少し離れたマンションで独り暮らしをしていたが、車やアウトドアなどの趣味道具を実家のガレージに保管していたので、暇があれば実家に行っていた。日中は介護を必要とする祖母しか家にはおらず、ヘルパーが週3~4回は来ていた。
ヘルパーはみなブサイク(失礼だが)で愛想もなく、流れ作業的に仕事をこなして帰って行った。身体は不自由だが口は達者な祖母は要望が細かく多く、ヘルパーに好かれていないのは、すぐにわかった。ある日、新人研修として先輩と一緒に訪問してきたのが柿崎さんだった。「あ、すげー美人。マジタイプ」が第一印象で、こんなキレイな人が何でこんな(これもまた失礼だが)仕事選んだんだ?と思っていた。
ヘルパーは何人か交互で来ていたが、いつのまにか、ほぼ柿崎さんがいつも来るようになっていた。あとで知ったことだが、祖母が細かすぎてみんな手を焼き、訪問を嫌がっていた。そこへ未経験の新人として来たのが柿崎さんで、おとなしい柿崎さんへ祖母の担当を押し付けたという。
柿崎さんは真面目で一生懸命だったが、お世辞にも要領がいいとは言い難いタイプだった。他のヘルパーが適当にあしらっていた祖母の昔話にも付き合ってしまうので、時間を過ぎてしまい、次の訪問を遅刻することもあったようだ。それで「鈍臭い」とイジメにもあっていたようだ。
僕は柿崎さんの仕事ぶりを見るのが好きだった。介護事業所指定のジャージは、柿崎さんの豊満なヒップを包むパンティのラインが丸わかりだったからだ。祖母のオムツを替えるときは屈むのでお尻を突出す姿勢になり、まるでニオイを嗅いで下さい、突いて下さいと言ってるようで興奮した。白のソックスの足裏は少し汚れ、親指の形がクッキリしていたこともあった。柿崎さんのナプキンかおりものシートが欲しかったのだが、柿崎さんはトイレ前にカバンからポーチを取り出し、トイレのあとは白いビニール袋をこっそりカバンに入れていた。使用済みは持ち帰っていた。
柿崎さんは僕が近くで見ていても特に嫌がる様子もなく、目が合うとニッコリ微笑んでくれた。僕はなんとなく怪しまれやしないかと気をもみ、「うちのババはうるさいでしょ。なんかトラブルになって柿崎さんに迷惑かからないように、ババが変なこと言わないか見張ってる」と言い訳してみると、「おばあちゃん想いなんですね」と何かピントがずれた応えを返した。
柿崎さんのプーマのスニーカーをよく嗅いでいたが、履く時間が短いのか蒸れ蒸れではなく、少し生ゴミのようなニオイがするだけで物足りなかった。いまはパンプスとストッキングの長時間履きでかなり臭いが。柿崎さんにスニーカーを嗅いでいるところを見つかったことがあり焦ったが、柿崎さんは変態扱いするでもなく、逆に「ごめんなさい」と申し訳なさそうに謝られた。柿崎さんと関係を持ってからこのときのことを聞くと、玄関が臭い、誰のせいだ?と僕が確認していたと思ったそうだ。自分のスニーカーのせいかもしれないと思って謝ったそうだ。こんなピント外れの柿崎さんがかわいくてしょうがない。
柿崎さんとは、少しずつ仲良くなり、世間話もするようになった。祖母のついでにと、昼食も作ってくれたりした。祖母が寝てるときは「今日はいいから。少し休んで、ゆっくりしてから次に行って下さい」「すみません。お言葉に甘えて」とおしゃべりする時間も増え、身の上話までするようになった。
柿崎さんは大学を卒業後、海外留学を経て帰国、そして結婚して専業主婦になった。義両親の「女は家を守るもの」という掟で、義両親の世話や子育てに追われて過ごしたそうだ。子供にあまり手がかからなくなりどこかで働きたいと考えたのは、家計の足しではなく、義両親から解放される時間が欲しかったからだ。
しかし、いざ就職となると、学生時代のバイト経験もなく、外で働いたことがなかったせいで、何がやりたいというより、何もできないのではないかと考えたという。そこで、介護ヘルパーなら家事なら出来るし、人手不足だし、という理由で選んだそうだ。給料の安さはどうでもよかったという。
ところが、いざ働いてみると仕事のきつさは覚悟していたが、同僚からのイジメに合い、とても辛かったという。たしかに要領が悪く鈍臭いイメージだが、美人で家が裕福だったのが嫉まれていたのではないかと僕は思った。だんなは「いろいろ経験するのもいいだろう」と言ってくれたが、義両親の反対を押し切って働きに出た以上、簡単に辞めることは出来なかった。職場を変えても同じことになるかもしれないし。
こうして悩みを聞くうちに、柿崎さんとの関係が始まっていった。
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