それからというもの、母と稲原くんとの仲は元へと戻って行きます。気の強い母親とおとなしい息子、二人は何気に気が合うのです。
その日、稲原くんはいつものように時間外ながら事務所に座っていました。母と他愛もない話をするためでした。
リミットの迫った7時前。もうすぐ、夜勤のおばさんが仕事へと現れるからです。帰りかけた彼でしたが立ち止まり、『あのー…。』と声を掛けています。
母は『ん?なにー?』と聞き返しますが、彼は次の言葉が出ては来ません。『なによぉー?』と再び聞いた母でしたが、彼からの返事はなかなか出ません。
そして、出た言葉は、『何でもないです…。』でした。彼は何も言えず、そのまま帰って行ったのです。
彼が帰り、代わるように夜勤の清掃班が事務所に現れました。タイムカードを押して居なくなると、母はスマホを手に取ります。
掛けたのは、稲原くんにでした。
『ねぇー?さっき、何か言い掛けたでしょー?あれ、なにー??私、ハッキリしないのは、気になるのよー!』
突然の母からの電話、そしてこの要求。気弱な彼の口から、すぐに返事など出てくるはずがありません。
しかし、『ねぇー?稲原くんさぁ~、ちゃんと言ってよー?たぶん、それ言いたかったんだと思うから…。』という言葉に、彼はやっと口を開くのです。
『おめでとうございます…。誕生日でしたよねぇ~?…、』
母はすべて分かっていたのです。彼が自分の誕生日を知っており、『おめでとう。』が言えなかったことに。
『ありがとうねぇー。ほんと、ありがとう…。』
電話ながら、母は弾けるような笑顔でそう答えていました。お祝いの言葉を貰ったこともそうですが、彼がちゃんと口を開いて言えたことも嬉しかったのです。
ただ、それだけでは終わりませんでした。勢いのついてしまった彼は、母に対してこう言ってもしまうのです。
『あのー…、僕…、松下さんのことが好きです…。ずっと前から…、好きでした…。』
突然の告白だった。この告白に、今度は母の方が言葉に詰まってしまいます。そして、一瞬で彼との思い出が呼び起こされてしまうのです。
事務所に座る彼は、いつも自分を見ていました。話をしていても、どこか自分に好意を感じていました。
落ち込む彼を励ますと、溢れる笑顔を見せてくれていました。
ただそれは好意ではなく、男の性。自分に対して母親を求め、女の見てエロスだけを感じとるだけのもの。きっと、自分はそんな存在なのだと思っていました。
しかし、彼は年が離れているにも関わらず、ちゃんと自分に対して好意があることを口にしてくれたのです。
『へぇー、よく言ったねぇー?なら、どうしようかなぁーー?』
母らしい返し方でした。考えもまとまってないのに、その返事は自分のイメージだけは崩そうとはしません。それでも、次の返事が出ては来ないのです。
『あのー…、松下さん?…、えっと…、プレゼント…、買ってたんだけど、渡すの忘れてました…、』
彼のこの言葉に、母の中でモヤモヤとしていたものが消えました。
彼はお祝いの言葉だけでなく、せっかく買っていたプレゼントまで渡すことが出来なかったのです。そのくらい、純情な心を持っています。
『稲原さん、今どこー?よかったら、そのプレゼント、わたし貰いに行ってもいい?』
それは母の本心だったのでしょうか。欲しいのは、貰いそこなったプレゼントなのでしょうか?
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