午後7時30分。時間通りに僕は加代子さんのお店の扉を開けていました。『こんばんわぁ~!』と声を掛けると、奥から『入ってぇ~。』と彼女の声がします。
それを聞き、扉を閉める僕の目は、駐車場に停まっている高級な乗用車の姿を見るのです。
それは見覚えのある車。その人に呼ばれ、僕はこの家へとやって来たのです。
リビングへと入ると、その人物はいました。恰幅もよく、威厳のありそうな男性。加代子さんのお兄さんです。
『おっ!来た来た。』
僕の顔を見ると、彼は喜んだようにそう言います。笑顔で頭を下げた僕に、彼は『座りや、座りや、』と言ってくれるのです。
そこに、加代子さんも呼ばれました。三人がテーブルを囲んだことを確認すると、お兄さんが置いていたバッグを手に持ちました。
そして、そのまま中から出てきたもの。それは、一通の封筒でした。彼は躊躇なくそれを開き、中から数枚の小さな紙を取り出します。
それは明らかに、電車の切符。封筒には、大手旅行会社の名前が書かれています。
新幹線と在来線の指定席二人分の切符、目的地は『愛媛県』だと分かります。日付は5月2日から、つまりゴールデンウィークです。
『道後温泉にしたわ。ゆっくりして来いや。』
それは二人のために用意をしてくれたものでした。彼女の顔を見ると、なんとも言えない顔をしていました。
あとで分かるのですが、加代子さん自身も目的地は知らされてはいなかったのです。今、初めて知ったようです。
お兄さんは嬉しそうな顔で切符を広げ、電車での行き方を僕達に、いや僕に説明をしてくれます。
駅を降りたら、そこにはレンタカー屋。それに乗り、道後温泉へ。旅館も全て彼が準備をしてくれています。もちろん、全て奢りです。
『あの~?これ、お金掛かったんじゃ?』と聞いた僕に彼は、『掛かったよぉ~。キミ、払うかぁ~?』と自慢そうに答えます。
そして、『お前らの味方になるのは、金が掛かるわぁ~。』と笑い飛ばしてしまうのです。なんて、豪快な人間なのでしょうか。
彼が、『加代子~、文句あるか?あるんやったら、これそのまま持って帰るわ。』と言うと、彼女は笑顔を作りますが、返事はしません。
この無言こそが、妹である彼女の返事なのです。
『よし!加代子、帰るぞ!』、渡すものを渡すと、お兄さんは立ち上がります。玄関で送ろうとする二人に立ち止まり、お兄さんはこう言うのです。
『加代子~?こいつと結婚する気はぁ~?ええぞぉ~、こんな若い兄ちゃん。』
突然そんなことを言われ、『もぉ~、やめてぇ~?アホなこと言わないでよぉ~、』と加代子さんも困った顔になります。
しかし、そのまま僕へも『キミはする気あるよなぁ~?どうする~?こんなおばさんもらったら~?…、』と笑って聞いて来るのです。
僕は咄嗟に、『なら、お兄さんとは義理の兄弟になれますね。』と答えていました。もう、笑いで返すしかありません。
彼は考え、『ああ、そうかぁ。そこまでは考えてなかってわ。アハハハ…。』と言って、去っていくのです。
ようやくこの家に静寂が戻りました。冗談のような会話だったはずなのに、彼女の後ろ姿を、僕の目は『彼女』としては見てはいなかったのかも知れません。
まだ見ぬ、未来の…。
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