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週が明けた月曜日、妻から連絡があった。その週の土曜日はフラワーアレンジメントの最終日でレッスンのあとに行事が予定されている。まる1日家を空けることになるので、子供たちのめんどうをみてくれるよう、埼玉の義母にお願いしたという内容だった。その直後にR田からも連絡があった。レッスンにカメラマンとして参加することを妻に伝えたところ、妻のほうからレッスン終了後にランチでもしないかと誘ってきたという。R田としては、今回は完全に受け身に徹し、自らモーションを起こすつもりはないが、彼としては妻は自分のマンションにくることになるだろうと予測していた。そして、それを見越して、美〇子のときのようにクローゼットに隠れて、一部始終を見る勇気はあるかと問うてきた。無論、二つ返事でお願いした。しかし、R田はこれまでの経験から、いざ自分の妻が寝取られるとなると、土壇場で躊躇する人間が意外にも多いことを知っていた。従って、そうなったときに備えて、寝取りをひとまず中止する方法は話し合っておいた方が良いと強く提案してきた。私に限ってそのようなことはないと断言したものの、R田があまりにも熱心にその必要性を説くため、結局は万が一心変わりした場合はR田の携帯を鳴らすということにきめた。そのような約束はしたものの、この時点ではR田の心配は杞憂に過ぎないと思っていた。
我々にとって、Dデイとなる当日、私は幸いにも外来当番から外れていたため、出勤後に病棟業務を済ますと、R田のマンションに向かった。R田からはフラワーアレンジメントのレッスン最終日の様子を撮影したものが次々に送られてくる。老若入り乱れて、アレンジメントに熱心に取り組む女性たちのなかに妻も写っていた。妻は先日、私が見せられたブルーグレーのワンピースに紺のカーディガンを羽織っている。顔をあげて写っているものはなく、余程熱中しているようだ。対照的に長い髪を巻いた20代後半くらいにみえるひとりの女性はすべての写真にカメラ目線で写っていた。美人といっていいだろう。明らかにカメラマンとして会場入りしたR田のことを意識しているようで、作品制作にはあまり集中してはいなそうだ。この女性が今回、当て馬に抜擢された人物だろうとすぐにわかった。
R田のマンション付近に到着した頃には、メールは止んだ。恐らくレッスンが終了し、妻とランチに出かけたのだろう。私はR田が指定した場所に置かれていた鍵を使って、R田のマンションに入って待機した。2時間程が経過した頃、<あと10分ほどで到着します。>というR田からのメールを受診した。妻が一緒かどうかは書かれていなかったが、何も言わないところをみると当然一緒なのだろう。私はスマートフォンをミュートに設定すると、トイレを済ませて、例のクローゼットに入って待機した。マジックミラーを通して、寝室を眺めているだけで激しく興奮する。江戸川乱歩の小説に登場する窃視癖の主人公のことがあたまをよぎり、瞬間、自嘲的になる。
やがて玄関ドアを解錠する音が聴こえ、ふたりがリビングに入ってきた。R田にすすめられたのか、妻はソファーに座った。私の位置からではみえない。だがふたりの声は良く聴こえた。
「これ、生け花関係の写真集。全部まとめておきました。全部持っていってもらって構わないですけど、一度には無理ですよね。でもこうやって亜紀さんがときどき本を取りにうちにきてくれるんならいいか。今、お茶いれますからゆっくり選んでください。さっきコーヒー飲んだから、紅茶でいいかな?」ドンと何か重いものをテーブルに置いた様な音がする。ソファーに座った妻に本を選ばせるのだろう。
「うん。でもほんとうにお構いなく。急にまた写真集貸してなんてお願いしちゃってごめんなさい。それと生け花じゃなく、フラワーアレンジメントね。」ふたりは笑った。
「とんでもない。僕が変なマネしちゃったから、もう来てはくれないと思っていたから。いつでも大歓迎です。」R田のこの返答に対して妻は何も答えなかった。
しばらくの沈黙、かすかにアールグレイの香りが漂ってきた。
「ねえ、R田さん。レッスンの参加者で桃色のワンピースを着ていたチャーミングな女性はR田さんの知り合いなの?」
「チャーミングなひと?僕が通う英会話スクールの受付事務さんの女の子がいたけど、彼女のことですか?服の色までは覚えていないけど。」
「すごく親しげだったから、彼女かもなんて思っちゃった。」
「何言ってるんですかぁ。全然関係ないですよ。今日は正直、少し馴れ馴れしすぎるんじゃないかって不快に感じました。どうぞ。」R田が自分のカップを持って、反時計回りにソファーの後ろを回り、妻の右側に座ったのがみえた。私の位置からは、R田の頭部だけがみえる。
「ありがとう。いい香り。R田さんにその気がないのなら、というか迷惑ならはっきり言った方がいいと思うけど。」我が妻の言ながら、余計なお世話だろうと思った。だが、妻をこのような心境にもっていくことがR田のねらいなのだろう。
「変に嫌われたりするのも損かなと思って、優しく相手してはきたんですけどね。」
「でもチャーミングな子だし、言い寄られて嫌な気分にはならないわよね。確かにすごく優しく相手してた。R田さんも男のひとだものね。」
「はは、なんか意味深な言い方するなぁ。」R田は大きく伸びをするとソファーから立ち上がり、寝室に入ってくるとベッドに腰かけてから、ドカッと上半身を倒して、いま一度大きく伸びをしながら言った。
「結構飲んじゃったなぁ。楽しくていつも以上にお酒が進んじゃったのかもしれない。」
しばらくの沈黙。大判の写真集のページをめくる音が聴こえていたが、いつのまにか妻が寝室の入り口にたっていた。静かにベッドに歩み寄るとR田の左側に座った。こちらからみると妻が手前に、R田が奥にみえるかっこうになる。R田は仰向けになったまま目をつむっている。
「ごめんなさい。気を悪くした?余計なお世話よね。R田さんが私にそんなこと言われる筋合いないし。ごめんなさい。」R田はひとことだけ、「気にしないでください。」と答えた。
妻はR田の膝に手を置き、わずかに前後に動かす。R田はいまだ横になったままだ。メールで言っていたように、今回は一切、彼のほうからモーションを起こすつもりはないようだ。
「私、嫉妬したのかな。かわいい子がR田さんにベタベタしていて。嫉妬するなんておかしな立場なのに。しかも家に押しかけるようなことまでして。ごめんなさい。」R田の膝がしらをさすりながら、妻はうなだれた。
「亜紀のほうがずっとかわいいよ。」R田がガバッと上半身を起こした。ふたりの顔が極端に接近したが、妻は距離を取ろうとしない。突然、呼び捨てにされ、刺激的な告白を受けた妻の表情をみてみたいが、こちらからはみえない。ただ彼女が固まっているのはわかる。数秒後、魔法が解けたように妻が動き出し、前を向いたままのR田の左頬に口づけをしたようだ。それに驚いた様子で妻の方を向いたR田の口をすかさず自らの口で塞ぎ、首に両腕をまわすと、首や肩を大きくうねらせ始めた。積極的だ。こんなにも積極的な妻はこれまでもみたことはなかった。
R田の自分の状態を支えていた腕を妻の腰に回した。盛んに体をうねらせるため、ワンピースの裾はかなりずり上がっていたが、それをさらに上へと押し上げる。真っ白な太ももとその付け根にワンピースと同色のブルーグレーのデルタ地帯がみえる。両膝はきっちりと合わさったまま、膝を割ろうとする巧みな侵入を拒み続けている。
舌が絡み合う際に唾液が発する音が私のところまで届き始めた。それに交じって、「気持ちいぃ、舌が気持ちいいぃ。」と妻の声が聴こえる。私は次第に冷静さを失い始めていた。
生まれたばかりの私たちの子どもを幸せそうに抱く妻、私が運転する車の助手席でかいがいしく弁当を口に運んでくれる妻、愛犬を可愛がる妻、なぜか妻のいる様々な情景があたまを駆け巡った。気が付いたときには手に持った自分のスマートフォンがR田を呼び出していた。
妻はR田の腕に体を預け、R田の舌を吸い続けていたが、両膝は侵入者に対する抵抗を止め、露わになった白い太ももは、解剖実験をまつウシガエルの両足さながらに、だらしなく左右に開いていた。ブルーグレーの薄布は私の位置からでも、その吸収能力をはるかにこえた愛液により、水に浸したティッシュペーパーの様になっている。R田のスマートフォンの着信音が鳴ったのは、彼がその薄布に手を入れた当にその時だった。
R田は即座に立ち上がり、リビングに消えた。私はR田が出た直後に電話を切っていたが、R田の声が聴こえる。「えぇ、わかりました。そうですね。そうなりますね。すぐに行きます。はい、失礼します。」うまい芝居だ。
妻はしばらく、茫漠とした表情で宙をみつめていたが、R田が寝室に戻ってきたときにはすっかり居住まいを正して、髪を整えていた。
「ごめん、こんなときに。うちで扱っている製品で事故が起きたみたい。製品と事故との因果関係はわからないみたいだけど、とりあえず招集がかかった。すぐいかなきゃいけない。ほんとうにごめんね。ゆっくり選んでいっていいからね。」
「私も一緒に出るわ。今日は急にお邪魔しちゃってごめんなさい。ありがとう。」
妻は再びR田に抱き着くと、数秒間キスを交わし、ふたりでマンションをあとにした。私はただただ茫然としていた。R田の予感は的中し、彼の杞憂ではなかったことが証明された結果となった。
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