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医局では大きな人事異動もなく、比較的平穏な毎日が続いていた。医局秘書の美〇子は増々その艶っぽさに磨きがかかったように思えた。実際、医局に出入りする保険の外交員の女性や、医学書籍を扱う書店の配達員の女性にその容姿を褒められているのを耳にした。外見には若干の変化はみられたものの、我々医局員とのやりとりや、仕事をこなす様子にはなんら変化はなかった。あの美〇子が夫以外の若い男の肉棒を嬉々として頬張っているなどとこの医局の誰が信じるだろうか。あの下品の塊のような教授ですら俄かには信じまい。さらに数日前にはR田から驚くべき報告もあった。美〇子はR田の要望に応えるために低用量ピルの内服を開始したというのだ。産婦人科の同期によれば、最近は超低用量ピルという副作用の心配がこれまでよりも格段に低減された新世代薬が普及しており、望まない妊娠を避ける目的で広く使われているという。我々が医学部時代に習った低用量ピルのイメージとは大分異なるらしい。しかし、<妻ならまだ後戻りはできる>先への不安からそんな考えも幾度となく頭をよぎった。
妻とR田のランチが予定されている日までは時間の流れが非常に長く感じた。わずか数日が数週間のように感じられた。その日、午前の外来を終えたあとは全く仕事が手につかなかった。R田からの連絡が気になり、恐らくは30分にいち度は携帯電話を確認していただろう。結局、病院にいる間、彼から連絡は来なかった。
官舎に戻ってもただ落ち着きなく時間を無駄に費やすことは目に見えていたので、佐〇子と会うことにした。彼女は久々の私からの誘いをとても喜んでくれた。ずっと会いたかったなどと甘えたことを言ってくれる。佐〇子とは彼女のお気に入りの店で食事をした後、いつも使うシティホテルでセックスをした。佐〇子はマリンスポーツを趣味とし、シングルマザーでありながら看護師としてもよく働くアクティビティの高い女性だ。男性からすれば、彼女のファッションや醸し出す雰囲気から、性に対しても奔放なイメージを抱くと思うが、それほど単純ではないのが現実の面白いところだろう。R田と絡む美〇子の姿を幾度も目にした後では、佐〇子とのセックスが健全で爽やかスポーツの様に感じられた。
R田から携帯電話への連絡はなかったが、深夜に官舎に戻り、すぐにラップトップを開くとR田からの報告メールが受信されていた。今日の録音データと思われるファイルが添付されおり、うまく次につないだつもりだという旨のメッセージが書かれていた。先ずはR田にお礼の返信を送ると、イヤホンを付けてファイルを開いた。再生を開始すると遠くの会話や、シルバーと食器の接触が発する音が聴こえ始めたので、少し音量を落とす。しばらくすると聴き慣れた声が聴こえた。
「ごめんなさい。待ちました?結構、船橋のあたりが混んでしまって。」
「いいえ、僕もさっき着いたところです。先ずは何か飲み物をお願いしちゃいますか。お酒は飲めませんしね、お互いに。」R田がウェイターにノンアルコールビールとウーロン茶を注文したあと、しばらくの沈黙。先に沈黙を破ったのはR田だった。
「今日も素敵ですね。そのワンピース、素敵な色だ。亜紀さんにすごく似合います。ロシアンブルーみたいな何とも言えない良い色です。僕、あの色好きなんです。」
妻は猫好きで、特にロシアンブルーをいつか飼いたいと常々言っていることはR田に伝えてある。R田によれば女性は偶然の一致に運命を感じ、心を許すようになるという。妻の好みや性格は事前情報として伝えてあった。
「ありがとう、褒めてくれて。R田さんもロシアンブルー好きなの?奇遇だなぁ、私も前から飼いたいって思っているの。今は絶対無理なんだけど、いつかね。ふふ。」一気に妻の緊張は解かれたようだ。
再び沈黙が訪れたが、今度は妻がそれを破った。
「この前はごめんなさい。なんといったらいいのか。あんな状況に置かれた自分にびっくりしちゃったというか。なんというか。」
「いいえ、こちらこそです。憧れのひととふたりきりになった状況に完全に有頂天になってしまいました。面目ないです。少し頭を冷やしましたので、安心してくださいね。しかし、今日の亜紀さんは一段と素敵ですね。」
「良くいうわって感じ。さっきからあの窓際で食事している女性の一団、こちらばかりみてる。R田さんみたいな超イケてる男子がなんで自分たちと変わらないオバサンとふたりきりで食事なんかしてるんだろうって言わんばかりの感じ。感じ悪いわぁ、ふふ。でも気にしない、気にしない。」
「逆じゃないかぁ?そんなことより、ロンドンで暮らしている叔母が久々にこちらの教室で短期のレッスンを受け持つっていうんで、亜紀さんどうですか?もし亜紀さんが受講したいようなら僕が枠をおさえておきますよ。人気の講座で一瞬でうまっちゃうみたいだから。」
「えっ、ほんとにいいの?それすっごくうれしいかも。」
「お安い御用です。というのも叔母が帰国する時に連れてくるひとり息子の面倒を昔からよくみさせられたんですから。僕がお願いすれば余裕です。」
「へぇ、そうなのね。ぜひお願いしたいです。」
「じゃあ僕がまた息子の相手をさせられている間、亜紀さんはレッスンだ。まあ、彼ももう18、9になるから、ちょっと連れ出してやるだけで喜びますけどね。これがまたなかなかの悪ガキで。イギリス人の旦那との間の子どもだから、ほら外見もなんというか・・・。とにかくむこうでも女の子にちょっかい出して大変って叔母が嘆いてますよ。」
「あら、誰かさんみたいじゃない?ふふ。」
フラワーアレンジメントの話題を中心に、終始くだけた雰囲気で会話が続いた。内容は他愛もないものであったが、妻の声からは平素感じることのない、軽やかさや華やぎを感じる。食後のデザートが運ばれてくるころ、妻は借りていたフラワーアレンジメントの写真集をR田に渡したようだった。
「またいつでも他のやつをうちから持っていってもらってかまいませんからね。」
「うん、ありがとう。でもちょっと自分が怖いかも。」
「そうですね、今度来るときは覚悟してください、今日の様に魅力的な亜紀さんがマンションに来たら、今度こそ冷静ではいられない・・・。はは、冗談です。今日も楽しかった。それから写真集もこんなのっていってくれれば、探して持ってきますから、安心してください。男ひとりのマンションなんで危険極まりないですから。またお暇なときに連絡してください、ランチでもしましょう。首をながぁくして待ってます。今日もとても楽しかったし、ドキドキしました。」
「わたしもすごく楽しかった・・・。」
「帰りは気をつけて、またね。亜紀さん。」
「あっ・・・うん、また・・・是非。」
録音の再生はそこで終わった。
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