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週が明けてからは、なにかと外来フロアをうろついてはR田の姿を探した。他科の医局のある旧棟にも出入りしたが、R田に直接会うことはなく数日が過ぎた。結局、我慢できなくなった私は<状況やいかに>とR田にメールを入れた。R田は私からのメールを予想していたらしく、すぐに返信があった。
先生
お世話になっております。あの後、私から彼女には一切連絡を入れてないです。私の予想では先生のようにそろそろ我慢できなくなり、彼女の方からコンタクトがあるだろうと思いますのでそれを待ちます。彼女はかなりのもんです。久々にのめりこみそうです。こんな機会を与えてくれた先生に感謝、感謝です。R田
R田にこちらの心境まですっかり見透かされていることに一種の不快さを感じながらも頼もしくも感じた。ただR田の想定する通りに事は運ぶのだろうか。飲んだ帰りに成り行きでキスを交わした程度の相手からちょっと連絡が途絶えたからといって、人妻が自らコンタクトをとろうとするだろうか。小説やドラマのようにはいかないと思うぞ、R田。そのときの私はそう考えていた。
何も動きがないまま数日が過ぎたが、その間にこんなことがあった。ある初診担当日、40歳代後半の男性患者が受診した。主訴は不眠、食欲不振、急激な体重減少、夜間を中心に起こる耳鳴。一般的な血液検査、尿検査を施行したが大きな異常はなかった。きっかけとなった大きなストレス要因に心当たりがあるとのことで、平素であれば精神科・心療内科の受診をすすめ、院内紹介状を作成する。だが、その日は再来患者の予約数も少なく余裕があったこともあり、看護師にしばらくはずすようにお願いしたうえで、何があったのかきいた。 その男性は堰を切ったように泣き出したが、少し落ち着くと次のように語ってくれた。 男性は会社員で、妻と大学生になるひとり息子との3人暮らしをしており、これまで家庭を省みず懸命に働いてきたという。ある日、彼はたまには昼前に退社して平日の午後を夫婦水入らずで過ごそうと考えた。日頃の感謝のしるしにと妻の好きな洋菓子店で土産を買って帰宅すると、玄関には息子のものとは思えない男物のブーツ、そして寝室からは妻の嬌声。当然、大変な修羅場となったようだ。その後に種々の症状が出始め、増悪しているとのことであった。特に夜間など周囲が静かになると、そのときの、妻の言葉とは到底思えない卑猥な嬌声が聴こえてきて眠れなくなることが特につらいとのことであった。簡単な睡眠薬や抗不安薬なら処方できるが、専門科で診てもらったほうが良いだろうとすすめ、本人もそれを望んだ。結局は精神科に紹介状を作成することになった。
仕事柄、このような場面にはよく遭遇するが、そのとき私がおかれていた状況もあってか強く心に残っている。この男性患者の妻も、患者本人からみれば貞淑な良妻に映っていたのだろう。美〇子だってそうだろう。都内に残してきている私の妻だって。
その男性患者が受診した当日の午後は教授をはじめとして、私も、そして他の医師たちも余裕があり、医局会でもないのに珍しく全員が医局に集っていた。自然、おのおのコーヒーや緑茶を片手にお互いの近況報告や治療方針に悩む患者の話などの雑談になる。私は視界の片隅で美〇子も我々の会話に耳を傾けていることを確認しつつ、午前中の寝取られ夫の話を出した。それぞれがその人物らしい反応を示したところで、「□□さんは女性の立場からどう思います?」と美〇子に話をふってみた。
「私はなんか想像すらできないです。ただ気になるのは相手の男性はどういう関係の人だったんですかね。」確かに気になるところではある。
「あぁ、きかなかったな。そうですね、さりげなくきけばよかった。」そこで●橋が入ってくる。「その奥さんよりもずっと若いイケメン君だったりするんじゃないですかぁ~。はい!ここで□□さんに質問!もし□□さんの好みのタイプど真ん中の若い男、ん~、そうそうこの前、福山雅治がタイプだって言ってましたよね。彼のような男に言い寄られたらどうしますか?」私は思わず口に入れたコーヒーを吹き出しそうになった。だが美〇子は考える様子もなく即座に答えた。「結婚しているから、いくら相手が福山さんでもないですね。独身の頃だったらついていっちゃうかもしれませんけど。」●橋は一同に「バカ。」と言われ、医局は失笑につつまれた。私の位置からみえる美〇子の笑みを浮かべた凛とした横顔は、子供をやさしく諭す母親のそれだった。
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