『お兄さん、ちゃんと目開けて行くんよっ!』、朝、仕事に向かおうと、自宅前に停めてある車に乗り込もうとした僕に佐久間さんが声を掛けて来ました。
一旦車に乗り込むのをやめ、片手で目を見開き、『目、開いてる~。』と彼女に見せつけます。
『それだけ開いてたら、事故しなくていいわ。いってらっしゃい。』と言われ、どこか御機嫌で車に乗り込みました。
つい最近まで、名前すら知らなかったおばさんです。いったい、いつからこんなに親しくなったのでしょうか。
そして、このおばさんに声を掛けられた僕は、どうしてこんなにも喜んでいるのでしょうか。
次の日曜日でした。朝10時過ぎ、僕はめったに歩くことのなかった町内の路地を、意味もなく歩いていました。
ほんと、何年ぶりの景色でしょうか。中学に入ると、まるで通らなくなった町内です。8年ぶりに見る景色は、小さい頃に見たものとまた違って見えます。
数人の方とすれ違いました。名前も知らない方に、頭を下げてすれ違っていきます。しかし、お目当ての方に会うことはありませんでした。
『久しぶりに歩く町内は新鮮っ!』、心ではそう思っていますが、きっとこのどこかに住んでいるであろう、あの人に会いたかったのだと思います。
その日も母の代わりにスーパーに出掛け、少し余計に時間を潰してもしまいます。残念ですが、ここでも会うことはありませんでした。
『なあ、あのおばちゃん、どっちの方から出てきてるの?』、そんな僕はついに母に聞いてしまっていました。
『誰?』と聞く母に、『なんだったっけ?ゴミ当番の時の、あの細いおばちゃん。』、素直に聞けない僕は、遠回しに聞いてしまいます。
『佐久間さんなぁ~?歯医者の裏よ。』と母に聞かされ、全然違うところを探すように歩いていた自分に呆れるのです。
歯医者の裏には3~4軒の家があるので、そのどこかということになる。しかし、あまりにも条件が悪い。
そこは行きどまりになっていて、用もないのにウロウロと出来る場所ではないのだ。
午後8時過ぎ。僕はその家の前に立っていました。歯医者の裏にある3軒の一番奥の家。そこに、『佐久間』と表札を見つけたのだ。
家の窓には明かりが灯っていて、きっとあの女性がいるの違いない。小さな門の中には、ママチャリが1台停まっていて、きっとあの人のものだろう。
やはり、一人暮らしなのだろうか?しかし、訪れる理由もなく、彼女と会うことはもうないのかも知れない。
ところが、2日後。
仕事から帰った僕は、自宅前に車を停めようとしていた。しかし、見知らぬ自転車が停まっていて、車庫入れが出来ないのだ。
すぐに玄関が開き、一人の女性が飛び出して来ました。まさかの佐久間さんでした。
『ごめんごめん。避けるから~!』と言って、自転車に手を掛けます。僕は『もう充分ですっ!』と声を掛け、出来たスペースに車を押し込みます。
どこか嬉しくなり、慌てて扉を開くと、『おかえり~!』と彼女から声を掛けられます。『お母さんの様子、見に来てたのよ。』と言われました。
『ああ、元気でしょ?ああ、入ってよ~。』と言いますが、『ううん。もう帰るところだし…。』と残念な返事でした。
玄関にいた母が、『ユウ?佐久間さん、送って行き~。』と僕に声を掛けます。少し嬉しくなりましたが、彼女は『ええよ~。すぐやろ~。』と拒みます。
しかし、『佐久間さん、知らんやろ~?うちの子、佐久間さんに気があるんよ~?』と母が言うのです。
『まあっ!ほんとぉ~?うれしいわぁ~。』と惚けるように答える彼女。しかし、『それなら、余計に一人で帰ろ~!』と言うのです。
母は、『ホラホラ、ユウっ!着いていかんとっ!』と押しました。正直、どっちも地獄です。
着いていけば、母の言葉を認めることになります。着いていかなければ、せっかくのチャンスを逃してしまうのです。
『送ります、送ります、』、僕の選んだ答えでした。その言葉に、『この子、気があるんやから~。』と惚けるさながらも、母が後押しをします。
佐久間さんは、『お兄さん、変な気、起こさないでよ~?』とこれまた惚けた言葉で返してくれるのでした。
僕が隣を歩くため、佐久間さんは自転車を押すはめになります。それでも、わずか2分程度の道のりです。
歩き出したのはいいのですが、話す会話がありません。当たり前です。つい最近、出会ったばかりなのですから。
『佐久間さん、お一人?』、ようやく口から出た言葉でした。取りようによれば、下心が見える言葉です。
しかし、薄暗く、お互いの顔が見えないのが幸いしました。『私?私、一人なんよぉ~。』と素直に答えてくれたのです。
せっかくの2分間のデートは、たったこれだけの会話で終わったのでした。
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