【短編エピソード2】検温
「田中さーん、失礼しまーす」
入院初日の夕食後、1人の看護師さんが僕のベッドへとやって来ました。
『本日夜間担当の森咲です。よろしくお願いしまーす』
彼女の挨拶を聞きつつも、僕はすかさず胸元に留められたネームプレートを確認します。そこには《森咲 郁美》という名と顔写真。営業という仕事柄、初対面の相手の名前や特徴を素早く憶えるのが癖になり、このようなときも例外ではありません。
歳は30代後半、左手薬指には銀色の結婚指輪が光っていました。ゆるくウェーブのかかった髪をバレッタで留め、口元はマスクで隠れていますが、目元はマスカラまでしっかりメイクされています。そしてなによりその豊満な体つき。ナース服に無理矢理押し込められた胸のせいでブラジャーの刺繍柄まで薄っすら確認できます。パンツタイプのナース服にピッタリ張り付いたヒップにはパンティのラインがクッキリと浮き出ていました。
昼間見かけた看護師さんたちは皆、揃って地味で真面目そうな方々ばかりでしたから、余計に彼女の色っぽさといいますか、看護師らしからぬ艶やかな雰囲気を感じたのかもしれません。
「お食事、全部食べられました?」
『はい、全部食べました』
「田中さん、お若いから全然足りないでしょう。消灯前ならオヤツとか食べてもいいですからね」
隣の病室に聞こえるのを気にしてか、途中から小声でこっそりとオヤツを許してくれました。
「なにか食べたいものがあったら言ってくださいね。売店で売ってるものなら私が代わりに買ってきますから」
彼女はニコリと微笑んで「消灯前にまた来ますねー」と言って戻っていきました。
僕の彼女、美優もそれなりに献身的で優しい女性ですが、森咲さんもなかなかのように思いました。いや、森咲さんは看護師、あくまで仕事として優しく接してくれているにすぎないのです。僕はその当たり前の事実に少しがっかりした気分になり、持参したビジネス本を手に取り消灯まで読み耽りました。
「田中さーん、おやすみ前にお熱と血圧測りますねー」
21時少し前、消灯の時間までまもなくというところで、検温のため再び森咲さんがやってきました。
「はい、これを右脇に挿してくださいね」
そう言って体温計を渡してくれます。
「今度は左腕を前に出してくださーい」
左の二の腕に血圧計を巻かれます。
僕はベッドの端に座っていましたから、ちょうど目の高さに森咲さんのあの大きな胸がきてしまい、目のやり場に困ってしまいました。
「36度6分、うん、平熱。血圧はちょっと高めだけど、ギリギリ許容範囲かな。あんまり興奮するような夢は見ないでくださいね 笑」
もちろん『森咲さんの胸のせいです』なんて言えるわけもなく、ましてや、“興奮するような夢”とはいったいどんな夢なのか教えてほしいものです。
「それじゃあ、電気消しますねー。何かあったらナースコール押してくださいね。おやすみなさーい♪」
そう言って、森咲さんが病室の照明を落としてナースステーションに戻っていきます。徐々に遠ざかる森咲さんの足音に大好きな彼女と別れるときのような寂しさを感じていました。
「入院初日はどう? 綺麗な看護師さんに優しくお世話してもらってるかな~? 笑」
消灯してまもなくスマホの画面が光りました。美優からのメッセージです。彼女はもちろん冗談のつもりでしょうが、どうしても“綺麗な看護師さん”のところを“森咲さん”と読み替えてしまう自分がいます。尚更になんと返したらいいか分からなくなってしまい、そのときはじめて美優に対して既読スルーしてしまいました。
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