【23】
「まぁ、そう言わず。
本当に1杯だけ飲んで帰るのも何だから、奥さんと少し世間話でもしたいなぁ。」
この言葉に、幸子の表情が変わった。
1杯飲んだら帰る、その約束を守らなかったのだから当然だろう。
幸子の怒声が響く、僕はそう予感した。
ところが、幸子は思い止まったのか眉間の皺を緩めた。
伊藤が素直に引き下がるわけがないと、幸子は薄々気付いていた様だ。
「せっかくですが、今言いましたけどこれから私用で外出しなければいけないので。」
「私用とは?」
「・・・仕事の面接です。」
「面接?あぁ、だからそんな身なりをしてたのか。」
出来れば面接がある事を教えたくなかった様だが、これ以上は隠し通せないと判断したのだろう。
理由を話せばさすがに伊藤も帰る、幸子はそう考えたに違いない。
しかし、幸子の思い通りにはならない。
「その仕事、もしかして○○喫茶店では?」
「えっ!?・・・何故それを?」
幸子は、不審そうに伊藤を睨んだ。
「あっ、本当にそうなんだ。
いや先日ね、偶然店の前を通ったら募集の貼り紙が入口に貼ってて。
もしやそうなんじゃないか、とね。」
伊藤は、再び僕に目をやる。
もちろん、これは嘘だ。
幸子が、店長から直々に頼まれたのだから募集しているはずがない。
1週間前のあの夜、僕は幸子の知り得る情報を全て伊藤に教えた。
誤魔化した事に気付けば、どんな仕打ちをされるか分からない。
面接の情報も、そこからのものだ。
一方、そんな事を知らない幸子は伊藤の言葉を半信半疑ながら信じるしかなさそうだ。
他に、伊藤が知る術は無いのだから。
とはいえ、面接場所が知られたとしても問題は無い。
面接があるから出ていけ、伊藤を帰すには十分過ぎる理由だ。
ところが、伊藤にはそんな常識など通用しないのだ。
「面接時間は、何時からですか?
今は1時、店までは車で10分だとして・・・これから行くとしたら1時半、ってところかな?」
「えっ、えぇ。」
「それなら、まだ時間はありますよねぇ。
10分位は話に付き合ってくれても間に合うはずだ。」
往生際が悪く、幼稚でわがままな発言だ。
だが、伊藤は畳み掛けた。
「あの~奥さん、まさか忘れちゃいませんよね?さっきの事。
もちろん何度も言いますが、恩を仇で返されたなんて言うつもりはありませんよ。
でもね、私が奥さんの下着を見つけなかったら・・・。
奥さんの今後の事を考えただけで、ゾッとするなぁ。」
わざとらしく芝居がかった表情で、幸子に恩着せがましく迫る伊藤。
言い返せない幸子は、伊藤を睨み付ける事しか出来なかった。
「おっと、少し言葉が悪かったかな?申し訳無い。
・・・本音を言うとね、奥さん。私、独り身でしょ?
いつも家で1人だと、話し相手が居なくて。
奥さんの家からは、毎日楽しそうな笑い声が聞こえてきて羨ましくてね。
だから、ちょっとだけでいいんです。
話し相手になっていただけませんか?」
今度は、情に訴える作戦の様だ。
もちろん、幸子は伊藤の身の上話に興味は無さそうだ。
しかし、幸子は観念したのか溜め息を吐きながら向かいの椅子に座った。
僕は、幸子の心情を推測した。
恐らく、伊藤の人間性を警戒したのだろう。
ここで強引に帰そうとすれば伊藤の怒りを買い、もっと厄介な事になる。
それなら少しだけ我慢をして話に付き合い、時間が迫れば帰そう。
さすがに面接へ行く時間になれば、この男でも素直に引き下がるはず。
まさか、それでも居座る様な非常識者では無いだろう。
幸子が考えたのは、こんなところだろうか。
確かに、普通ならそう思うのが当然だ。
そんな幸子の心情を知ってか知らずか、伊藤は幸子が向かいの椅子に座ったのを確認し、不気味なニヤケ顔が止まらなかった。
とはいえ、当然幸子は伊藤と楽しく会話をする気など無く、伊藤と視線を合わせようとはしなかった。
伊藤のわがままに付き合っても馴れ合うつもりは一切無い、気が強い幸子ならではの対応かもしれない。
だが、伊藤はお構い無しに幸子へ話し掛けた。
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