その日の夜7時。父は、初めて町内会の集会場にいました。近所付き合いをしていなかったため、顔見知りなどいない父は、どこか緊張もしています。
周りにはどこかの爺さん婆さんばかり、それでも緊張するのですから、父も口で言うほど強い方ではないのです。
会合が始まりました。父は御老人達に囲まれながら、大きなあぐらを組んで座っていました。正座がダメなわけではありません。
あぐらを大きく組んだことで、隣に座るの方との距離を保ったのです。
正面には、会長を含めた4人の役員が並んで座ります。その一番左に座ったのが、滝本先生でした。
参加者には、A4サイズの書類が数枚配られます。それを見ながらの会議となるのです。父はその1ページ目を見て、何かを探しています。
そこには、役員4名の名前が書かれています。その中で女性はひとり。そうです、父はこの時初めて先生の名前が『滝本久美子』であることを知るのです。
父は隣に座る女性に、『これ、あの人か?』と聞きます。おばさんは、『滝本先生?そうそう…。』と丁寧に教えてくれました。
会が進んでも、父と女性とのコソコソ話は続いていて、『ちょっと黙ってよ~。』と役員に注意を受けたほど。
そのくらい、おばさんが話をしてくれる滝本先生のことを、父は熱心に聞いてしまっていたのです。
その中のある一言に父は反応をしてしました。『8年くらいに旦那さんを亡くされて…。』というおばさんの言葉でした。
その言葉で父の目は変わります。父は、すでに滝本先生に興味を持ち始めている自分に気がついていたのです。
会は進みます。しかし、父にはどこか腑に落ちないところがあったのです。会議と言いながら、誰も挙手をしない姿勢。
『これは、会議やなくて、だだの説明会やないか。』と父も思い始めたのです。
『ちょっとっ!』、突然手を上げた父に、場は慌てます。意見する者などほとんどなく、ただ配られた書類を眺めるだけの参加者には、父は異質でした。
『これ、ここに書いてるやつ~。』、書類を指さし、意見をしようとする父の言葉に、みなさんページをめぐり始めます。
前の役員4人にも緊張が走るのです。父の意見に応対したのは、誰あろう滝本先生でした。まあ、名前だけの役員では相手にならなかったのです。
慌てる役員の中で、先生だけは冷静でした。父の疑問に、一つ一つ答えていったのです。真面目な彼女は、いつもこういうことを想定して参加していました。
ただ、死んだように誰も何も言わないことで、そのチャンスがなかっただけなのです。
あんな父ですが、質問した内容は的確でした。みんなのあやふやなところを、とにかく役員へ質問を繰り返します。
それはいつしか、『役員vs父』から、『滝本先生vs父へ』と移り、参加した方は、みなさんそれを見守るだけとなってしまうのでした。
会合が終わり、『ありがとうございました。』と父にお礼を言った人がいました。それは、急いで近づいて来た、滝本先生でした。
先生も、『ようやく実りのある会が出来た。』と心の中で父に感謝をしたのです。先生も、この『なにも言わない主義』の会には、疑問を持っていたのです。
それを期に、父が滝本先生へとアタックを開始することになるのでした。
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