まだ奉納演武会の稽古をしていた頃だから、残暑厳しい9月だったと思う。僕は自主稽古をするためにW道場に向かっていた。道場は師匠の持ち道場だから、師匠に鍵さえ借りればいつでも稽古が出来た。古めかしい大正時代からある由緒正しい道場。玄関を上がれば気が引き締まる別の世界と繋がっている。僕はこの雰囲気が好きだった。道場は9時過ぎだというのにまだ明かりが付いていた。
道場にはI先輩とT先輩が居残り稽古をしていた。奉納演武会の稽古は文字通り演武を稽古するのだが、実践空手を標榜している二人は組み手の稽古に余念が無い。二人とも地元の大学の3回生。僕の憧れだ。
「押忍」
道場の入り口で一礼すると、T先輩が僕に気づいて組み手の気を削いだ。それを察してI先輩が組み手を止める。上気していてるT先輩が、時計を見て「こんな時間かよ」と、おどけた表情で笑った。多分稽古を誰よりも愛しているI先輩に引きずられてここに残っているのだろう。
「おう、○○。腰の具合は大丈夫か?」とT先輩。
「はい。昨日整骨院に行ってきました。先生から少しの間通院しろって言われました」
I先輩は肩で息をしながら、僕を見ようとしない。
「着替えてこい、○○。演武会の稽古に来たんだろう。稽古に付き合ってやる」
I先輩はタオルで汗を拭いて、スポーツドリンクを浴びるように飲んだ。蛍光灯の光に照らされて汗が輝いている。
しなやかな鞭のようなT先輩とは対照的な鋼のような体は、I先輩の努力の印なのだろう。天才肌のT先輩と努力のI先輩。空手のスタイルも性格も正反対の二人が親友なのは、この道場の七不思議の一つだ。
「了解。じゃあ、ぼくは帰るからね。戸締まりよろしくぅ」
スキップしながらここぞとばかりに逃げだすT先輩。いい逃げる口実がやってきたと顔に書いてある。
「え、T先輩付き合ってくれないんですか?ひどいなぁ。かわいい後輩がやる気になってるっていうのに」と僕。ニヤニヤしながら軽口がたたけるのはT先輩だからだ。これがI先輩だったらこうは行かない。
「ぼくは君達とは違って夜の方が忙しいの。じゃあ、あとはI先輩の熱ぅ~いラブ空手を楽しんでね。僕は絵里子と熱ぅ~い夜を過ごすので。おやすみ童貞諸君」
T先輩は道着を脱いでTシャツに着替えると、下衣のままスクーターで帰ってしまった。最近つきあい始めた絵里子さんのアパートに行くのだろう。
僕は道着に着替え、大鏡の前に立った。後ろから鬼の形相のI先輩が腕を腕を結んでこちらを睨んでいる・・・。いや、これがI先輩の普段の顔なのだ。鏡の中のI先輩と目が合ったので、慌てて逸らす。
息を大きく吐いて大きく吸う。ゆったりとした呼吸法で臨戦モードに自分を作っていく。全く違う自分になっていく、僕にとって大事な儀式だ。その最中、I先輩が鏡の中の僕から目をそらしてつぶやいた。
「すまなかったな、○○」
目を上げないまま、I先輩は固まっていた。I先輩は唇を噛んで、腕組みをきつく締めた。いつも厳しい表情のI先輩が更に厳しい表情になった。ずっとI先輩は自分を責めていたのだ。
「あれは僕の修行不足です。G整骨院の爺ちゃん先生にも怒られちゃいました。だから先輩もっと稽古を付けて下さい」
素直な気持ちを伝えた。僕はI先輩のこういった生真面目さが好きだ。この後まさか午前1時までぶっ通しの型稽古をやらされるとはこの時は思っていなかったが、本当にこの道場で空手が出来ることを誇りに思えた。
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