次の日、恵里奈は稽古に来なかった。当然だろう。稽古の帰りにあんなことになったのだから。稽古が始まる前のダラダラした時間。
「恵里奈ちゃんどうしたんだろね」
と心配している門下生は多い。彼女目当てで来ている奴は気もそぞろだっただろう。当然僕はこの事について何も話さない。そんな折、W館長が道場に現れた。
「おい、〇〇。事務室に来いや」
いつもの飄々と力の抜けた感じで僕を呼び出す。「押忍」と返事をした僕は、雑談の輪を抜ける。T先輩が「お!もしかして〇〇、恵里奈ちゃんにやってたエロい嫌がらせとか、館長にバレちゃったんじゃないの?」とドキッとする軽口を言う。「はいはい、そうです!」取り敢えずそれを受け流す。
事務室に行くと、W館長は腕組みしながら深刻な顔になっていた。
「あのな。恵里奈のことなんだけどな」
やっぱりその事か。
「今日警察が来てな。河田がされた事とか、お前がそれを助けてくれた事とか全部聞いた。河田を助けてくれて、ありがとな」
「いや、当たり前の事したまでです」
W館長は続けた。
「まず約束してくれ。何が起きたか他の門下生に絶対に洩らさない事」
「押忍」
「それから、河田のフォローをしてもらいたい。お前と河田は年も近いし、この事を知ってるのは俺とお前だけなんだからな」
「え、あ・・・」
僕の頭の中で「年増に汚された先輩なんかに負けない」という一言が浮かんでくる。
「とにかく頼む。河田はああ見えて気が弱いんだ。引っ込み思案の自分を治すために空手を始めたぐらいだからな。道場で無理して勝気なフリをしているあいつを見てると、痛々しくてなぁ」
W館長は大きくため息をついた。
「お前は面倒見もいいし、将来の指導者と思っている。これはお前にしか頼めないんだ。河田の事、よろしくな」
「押忍。わかりました」
僕は恵里奈の意外な一面を知って、複雑な気持ちになった。あいつは自分に向いてるから空手を始めたのだと思っていた。恵里奈が触れて欲しくない場所に触れた様で、何故だろう、いたたまれない気持ちになった。
その日の稽古は身が入らず、白帯の中学生に一本取られるという失態を演じる始末。I先輩から有難いご指導をいただき、自主練もせずに帰ることにした。
学生服に着替え、道場に一礼して帰ろうとした時、
「先輩」
街灯の下に制服のブレザー姿の恵里奈がいた。ずっと僕を待っていたのだろう。いつもの凛とした恵里奈の雰囲気と違い、すこしやつれた様に見えた。
「あの・・・。ちょっとお話しいいですか?」
恵里奈は下を向いたまま、僕の答えを待っている。ひたむきな一生懸命さは長所であると同時に、時として自分を苦しめてしまう短所にもなる。『河田の事、よろしくな』というW館長の言葉を思い出し、僕は恵里奈と一緒に肩を並べた。
「じゃあ、お茶でもしながら話そうか。奢るからさ」
僕の後をついてくる恵里奈がとても可愛らしく見えた。
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