『散々だったな』
僕はトボトボと最寄りのF駅までの道程を歩いていた。脇腹がズキズキ痛む。呼吸をする度に痛むので、ため息も着くことも出来ない。こんな怪我は日常茶飯事だが、今回はかなり応えた。
『あああ、知られていたのか』
あの見下した恵里奈の目を思い出すと、腹立たしいやら情けないやら。麗美さんとの逢瀬に夢中になり、周りが全く見えてなかった。しかもよりによって河田恵里奈にバレていたなんて。彼女の性格から他に言いふらして廻るということはないと思うけど、弱みを握られたという事実は変わらない。
F駅の改札口を通り、プラットホームの2番線に入る。残業を終えたサラリーマンの群れが黙ったまま電車を待っている。その群の中に、知った顔があった。河田恵里奈だ。
僕には気がついていないらしく、単語帳を捲りながらブツブツ何か言っている。こう見ると清楚な女子高生なんだな、とちょっと見とれてしまった。
混んだ電車が到着し、F駅で降りる人を吐き出す。僕は恵里奈と距離を取って違う入り口から入る。恵里奈はドアに体を向けて、相変わらず単語帳を見ている。
僕の立っている位置から、恵里奈の位置まで約5メートル。気がついてもおかしくない距離だ。正直逃げ出したい気分だ。あんな事があった訳だし、この上なく気まずい。こいつ、どこまで知ってるんだろう。後輩の女の子にこんな風に思わなくてはならない自分が情けない。そんなことを考えていた折、
『あれ?』
恵里奈の様子がおかしい事に気がついた。やたら自分の後ろを気にしている。さっきまで集中していた単語帳を見る事も出来ず、身を固く縮めている。まるで何かから身を守るかのようだ。
後ろにいる40代ぐらいのくたびれたサラリーマンがもぞもぞと動くと、ビクッと恵里奈が小さく跳ねた。そのサラリーマンは畳んだ新聞で恵里奈との間隔を隠す様に立ち、息を荒げている様に見えた。間違いない。
恵里奈は痴漢に遭っている!
あれだけ強い恵里奈が、痴漢されている恐怖で動けないでいるのが俄かに信じられなかった。されるがままに、誰にも助けを求められず、恥辱に耐えている。痴漢は恵里奈が何も抵抗しないのをいい事に、行為をエスカレートしているのだろう。
僕は人ごみの中を、そのサラリーマンに気づかれない様に近づく。近くで見るとしょぼくれた小男だ。冴えない雰囲気、ヨレヨレのスーツ。こんな奴にいいようにされているなんて!
僕はこの男の腕をガッシリ掴み、低い声で囁く。
「テメェ。俺のかわいい後輩に何してくれてんだ?」
男は急に腕を掴まれて驚いたのか隠していた新聞を落とした。男が恵里奈に何をしていたか目の当たりにした僕は、男の腕を目一杯捻り上げた。男はスカートの中に手を入れているどころか、パンティを下げて直接恵里奈のアソコをいじっていたのだ。
「痛い痛い!何をするんだ!警察を呼ぶぞ!」と痴漢が叫ぶ。
恵里奈は僕を認めると、真っ赤になってしゃがみこんでしまった。余程怖かったのだろう。子供の様に声を上げて泣き出した。
僕は男の腕を両手で捻じ上げ、以前に合気道をやっているS君から教わった三教の固めを取った。相手が逃げようともがけばもがく程、自由が失われていく固めだ。男はそれでも抵抗するので、更に腕の緩みを取って、折れる寸前まで追い込んでやった。
「畜生離せ!傷害罪で訴えてやるからな!」泣きそうな声で叫ぶ男の様子に、車内が騒然となる。
「訴えるなら訴えなよ、おっさん。痴漢風情が何言ってやがる」
男は脂汗でびっしょりだ。痴漢という言葉に、周りからは男に対する罵声が飛び交う。「警察に突き出されるのはお前の方だ」「次の駅で降りろ、変態野郎!」「にいちゃん、その腕折っちまえ」俄かに車両内に一体感が生まれ、数人の若者が男に制裁を加える。腕を三教で固められ、身動きが取れない状態で殴られるのだ。たまったものではないだろう。
「河田、もう大丈夫だからな」
しゃがみこんで泣いている恵里奈に、初老の女性がなだめくれていた。声をかけると恵里奈は泣きながらしきりに頷いている。次の駅までもうすこし。僕は恵里奈を助けてあげられた事を、掛け値無しに良かったと思っていた。
※元投稿はこちら >>