『54』
さすがは高級料亭だ。
廊下やトイレもキレイで、不快感は一切ない。
だが、幸子はもう帰る事にした。
ここに来た目的はもう果たしたのだ。
これ以上、小倉と一緒になど居たくはない。
とにかく急いでここから出よう、幸子はトイレを済ませるとバッグを取りに座敷へ向かおうとした。
しかし、やはり幸子の嫌な予感は的中してしまった。
トイレの前には憎き淫獣、小倉が立ちはだかっていたのだ。
「・・・」
幸子の中で、忘れ去りたいあの忌々しい記憶がまた甦ってしまった。
だが、今回はあんな卑猥な行為は出来まいと思った。
建物の一番奥にあるとはいえ、ここには従業員も多くいる。
悲鳴を上げれば誰かがすぐに駆けつけてくるに違いない。
幸子は小倉などお構い無しに、横を通り過ぎようとした。
すると、小倉の口から予想外の言葉が出てきた。
「待ってくれ、牧元くん。謝らせてくれないか」
「え?」
「君が私を避けているのは送別会の時、つまりあの事が原因なんだろ?だったら謝らせてくれ。本当に済まなかった。私もあの時は酔っていてどうかしてたんだ」
まさか、謝罪の言葉が出てくるとは意外だった。
しかし、それで幸子の気持ちが変わるはずもなかった。
「どいてください」
「普段、あれほど酔うまで酒を呑んだ事はなかったんだ。なのに何故あの時は酒におぼれたか分かるかい?・・・君を愛していたからだよ」
「なっ!?」
「君が初めてうちの事務所に来た時だった。私は君の美しさに心を奪われ、あっという間に牧元幸子という女の虜になっていたんだ」
小倉は続けた。
「・・・君に家族がいるのを知ったのはその後だった。何度も諦めようと思ったんだ。でも、君を見る度に私は感情を抑える事が出来なくなっていた。・・・そして昨年、とうとう君は事務所を辞めると言い出した。・・・君にした行為が許されるとは思っていない。でも、あれは君への想いが溢れ出してしまっただけなんだ!」
小倉の熱弁は、まだ続いた。
「君を苦しめた事は重々承知している。でも、どうしても君への想いは捨てられないんだ!・・・頼む牧元くん。私には君が必要なんだ」
「え、ちょっ・・・あなた何を言ってるか分かってるの!?」
「もちろん、家族を引き裂こうなんて考えていない。家族には秘密にしておけばいい。・・・牧元くん、私は本気だよ」
小倉の目は、確かに本気の様だった。
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