『16』
「弥生ちゃん、ちょっと出てくるから留守お願いね」
「はい、分かりました」
幸子は、何度か外出をしている。
いくら経験豊富な弁護士でも、個人事務所経営者としては新人なので挨拶廻りなど色々あるのかもしれない。
こんな時でも典夫ではなく、弥生を頼りにする幸子だった。
だが、典夫はそんな事を気にしてはいなかった。
むしろ、この機会を待っていたのだ。
幸子が事務所を出ると、すぐに弥生は立ち上がり幸子のデスクへ向かった。
幸子の飲み終えたコーヒーを片付けるつもりだ。
それも、弥生にとってはいつもの事だった。
しかし、今回はそれに待ったをかける人物がいた。
「あっ岡山くん、僕が片付けておくから大丈夫だよ」
典夫だった。
典夫の意外な言葉に、弥生は驚いた。
今まで弥生の方が年下なので、典夫に文句を言うなど出来なかった。
弥生にしてみれば、弁護士の仕事内容を知る事は法的知識の向上にも繋がるので好都合ではあったが。
その、ほとんど何もしなかった典夫がいきなり率先してやると言ってきたのだから驚いて当然だ。
だが、次の典夫の言葉に弥生は納得する事になる。
「その代わりといっちゃなんだけど・・・実は僕、今日弁当忘れたんだよね。ちょっと近所のスーパーで買ってきてくれないかな?」
「えっ?」
つまり年上という事を利用し、弥生をパシリ扱いしているわけだ。
幸子が居れば、こんな事出来るはずがない。
幸子が居なくなったのを見計らい、頼むつもりだったのだろう。
それも、弥生の断りきれない性格を分かった上でに違いない。
典夫のずる賢さが垣間見える一面だ。
しかし、典夫が大橋物産の社長の息子だと知っている者からすれば敵には回したくない。
弥生は引き受けた。
「分かりました。行ってきます」
「悪いね、弁当は何でもいいから」
弥生は典夫から千円札を受け取ると事務所を出た。
こんな事が日常的になるなら流石に幸子に報告しなければと弥生は思い、車を出した。
誰も居ないシーンとした事務所の中、受付に座り込む典夫の心臓の音が聴こえてきそうだ。
典夫は何とか気持ちを落ち着かせると念の為に鍵を閉め、幸子のデスクへ向かった。
デスクの上には、資料や法律に関する本などが綺麗に並んでいる。
そこに、幸子が先程飲み干したコーヒーカップが置いてあった。
当然、典夫の狙いはこれだった。
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