『30』
「それにしても幸子、そのスーツ似合ってるじゃないか。俺は一番好きだなぁ。さすが旦那の選んでくれたスーツだ」
「何故その事を知ってるの!?」
もちろん、由英から貰ったスーツだと小倉に話した事などない。
しかし、記憶を辿っていくと心当たりが一つだけあった。
数年前、忘年会でこの紺のスーツを着ていった時、同僚との会話でつい由英からのプレゼントだと話した事があったのだ。
その時、小倉も近くにいた事を思い出した。
つまり、このスーツは小倉が見忘れた訳ではなく敢えて残しておいたという事だったのだ。
由英から貰ったスーツを着させ、反応を楽しむつもりなのだろうと幸子は察した。
だが、そんな事は最早どうでもよかった。
目の前に犯人がいるのだ。
しかもそれは上司であり法に携わる弁護士なのだ。
絶対に許せるわけがなかった。
「弁護士が罪を犯すなんて最低な事よ。おとなしく自首しなさい。でなければ警察を呼ぶわ」
「警察ねぇ。幸子、忘れたか?そんな事をすればお前の家族が犠牲になるんだぞ。お前は家族を巻き込みたくない、違うか?」
その言葉に幸子の勢いもしりすぼみになってしまった。
長年、幸子を付け狙ってきた小倉には幸子の想いを見破るなど造作もなかった。
幸子の苦しむ様子に興奮する小倉は更に幸子の怒りを煽った。
「自分の妻が他の男に弄ばれたなんて知ったら旦那はどれだけ傷付くんだろうなぁ。情けない顔で取り乱した姿が目に浮かぶよ」
「パンッ!」
小倉が言い終わる瞬間、狭い通路に乾いた高音が響いた。
幸子は思わず小倉の頬を叩いてしまったのだった。
自分だけではなく家族の事まで侮辱されるのを許すわけにはいかなかった。
「最低っ!もう顔も見たくないわ!」
幸子は小倉を鋭く睨み付け、その場を立ち去ろうとした。
しかし、進路を塞ぐ小倉の腕が邪魔だった。
幸子は退かそうと小倉の腕を掴んだ。
「退きなさい!」
力づくで小倉の腕を壁から外すと、ようやく道が開いた。
この男から早く離れなければと幸子は急いで走り去ろうとした。
だが、その腕を離し小倉を通り過ぎようとした瞬間だった。
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