第十五章
「──私は一瞬、──気絶しました」
_そう言って、処女のように頬を紅くする梅澤という女性。
「気を失うとは思ってなくて。──ただ、彼に会いに来ただけなのに」
「──彼って、──彼氏ですか?」
「──いいえ」
_私の言葉を否定して、彼女は真剣な表情で、こう言った。
「オダノブナガ」
_聞き覚えのあるその名前。冗談で言ったにしては、梅澤さんの表情が緩むことはない。
「そのような名前の方は宿泊されてませんよ。」
_朋美さんも今までになく不思議そうな顔をしている。
「ちがうんです。──私も本当の名前は知らないんです。──私がこんなふうにだらしないから、バチが当たったんです、──たぶん」
_梅澤さんの言ったことに、私は、まさか?と頭をよぎるものを感じた。
_オダノブナガの本名は──千石弘和?──まさかね。千石さんはまだここに向かっている途中だし、今ここに居るはずがなかった。
_ただ、私もまたノブナガさんの本名が千石弘和だと本人から聞いたにすぎない。偽名の可能性もある。顔も知らなければ、年齢も不明。そう考えると、私が今ここに居ること自体、獰猛な狼の群れの前で性器さえも隠すことなく裸をさらしているように思えてきました。
_オリオン座を形成する星に代表される、リゲル、ベテルギウス。それらの星の和名はそれぞれ、源氏星、平家星といわれている。さらに、女戦士の異名をもつベラトリックス。
_夜空で輝く源氏や平家の女戦士は、織田信長の陰謀によって地に落とされてしまうのでしょうか。
_やがて遠くから救急のサイレンが近づいて、まもなく梅澤さんを乗せると、また雪山の麓へと遠ざかっていきました。
_結局、彼女が言う「オダノブナガ」が誰なのか、まだここにとどまっているのか、彼女を追って山を下りたのか、それを確かめることはできなくなってしまいました。
「なんだか──さっきより風がつよくなってきましたね」
_梅澤さんを乗せた救急車を見送ったエントランスで、重たい色の空を見上げる庭朋美。
_私は言葉もなく、同じ空を見上げて、千石弘和という人物像を追いながら、善人なのか悪人なのかと考えていました。
_そして二人、建物の中へと入って、自動販売機の前の長椅子に座った。朋美さんは小銭を鳴らしながら缶コーヒーを2本買って、「おつかれさま」と、そのうちの1本を私の前に差し出した。
「──すいません」
「それは私のセリフですよ。大事なお客様にいろいろ手伝わせてしまって」
「──すいません」
「三月さん…どうかしました?」
_私の中で沸々と湧き上がる、ある疑惑。それを読みとったのか、朋美さんの眉が歪んだ。
「──さっきの…あの女性が言ってたオダノブナガ。──私の知ってる人かも──」
_私の口から出た告白に困惑する朋美さん。
「──私が今日ここで会う約束をしている人も、織田信長に関係があるんです。──私の思い過ごしかもしれませんけど」
「──三月さんのお連れの方は、彼氏じゃないってことですか?」
_数秒の沈黙が息苦しくなり、缶コーヒーをごくりとひとくち飲んで、「実は──」と、千石弘和の名前を出そうとした時、あの三毛猫が、ひょこっと姿をあらわした。
「ここの看板猫なの」
_朋美さんは目尻にシワを寄せて、表情をゆるめた。
「癒やされますね。なんていう名前なんですか?」
「マサムネよ。なかなかの男前でしょ?」
_そんな調子で、私達ふたりが談笑していると、二十代半ばくらいの男の子ふたりが廊下の向こうから近づいてきて、私達に声をかけてきました。
「かわいい猫ですね。僕も猫飼ってるんですよ。お姉さん達、彼氏待ち?」
_いかにも軽そうな感じ。見た目は悪くないけど、生理的に受け付けない。
_私は左手薬指の結婚指輪を彼らに見せて、「私──これだから」と、軽くあしらった。
「そんなの気にしないからさ、一緒に滑ろうよ?」
「もうすぐ旦那が来るから、また今度、相手してよ」
_私に声をかけてくる男といったら、だいたいこの程度の男だ。これは私の勝手な想像だが、セックスにしたって、雰囲気づくりや前戯を省略して、自分の事しか考えない幼稚なセックスごっこに終わるに違いなかった。
「おまえ、女見る目ねえわ。さっき声かけた子も100パー独身とか言いながら、結局人妻だったしさ」
「ばか、違うよ。オレは人妻を見抜く目があんの」
「なに言ってるか全然わかんねえ。──最近の人妻は、どうなってんだか。みんな可愛い子ばっかだわ、ほんと」
「でもさ、さっきの子。完全にひとりだったしさ、声かけられるの待ってたっぽかったよな?」
_無駄に大きな声でしゃべり続ける彼ら。
_そしてようやく負け犬の遠吠え的会話が終わると、「──じゃあね」と四人とも手を振って、愛想笑いをしていたのは私たち女ふたり。
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