第十三章
「今日は平日だから日帰りの人がほとんどだし、別館のほうもいくつかお部屋は空いてるはずですけど」
「──別館があるんですか?」
「ええ──。別館のスクエアガーデンズは主人に任せてあります。夕べ、送迎バスの中から見えませんでしたか?」
_そう言われて私は夕べの記憶を辿ってみましたが、気持ちが高揚していたせいか、ここへ来るまでの記憶はおろか、電車の車窓からの景色すら思い出せない。
_この歳になってまで「恋の病」に犯されるとは思わなかった。
──と、その時!
…がたがた!…がたん!
_椅子の脚の爪先と木の床がこすれ合う音がしたあと、どさっ──と重い土嚢を床に落としたような鈍い音がした。
「どうした?」
「人が倒れた」
_そこに居合わせた数人のざわめきが押し寄せるように聞こえた。そちらに視線を送ると、横倒しになった椅子のわきに、ひとりの女性がうつ伏せで倒れている。
_緊張した空気が漂った。
──なにがあったのか?
──命に別状はないのか?
_なかなか状況を飲み込めないでいる私を余所目に、誰よりも素早く女性のもとへ駆け寄ったのは朋美さんでした。
_そして二人を取り囲むように、あっという間に小さな人垣ができる。私も少し遅れてその場に駆け寄りました。
_意外にもその女性はすぐに上半身を起こして、大丈夫とばかりに手のひらをこちらに向けた。
_念のため、医務室のベッドで休ませることにしようということで、女手が要ると思った私は、朋美さんと二人がかりで彼女を医務室に連れて行った。
_持病の発作なのか、それとも貧血で倒れたのか。それにしては彼女の顔色が悪くないような気がした。熱っぽい表情からすると、風邪の可能性を考えた。意識ははっきりしている。
「ご迷惑をかけて、すいませんでした」
_医務室に入るなり、彼女は腰を曲げて申し訳なさそうに言った。
「大丈夫ですか?お連れの方を呼びましょうか?」
_彼女を不安にさせまいと、朋美さんは凛とした表情でやさしく言った。
「──あの──平気です、私ひとりで」
_落ち着いた声の感じからすると40歳ぐらいに思えるその顔に、シミやシワといったものはひとつも見当たらない。
「──あの、──お手洗いを──」
_彼女のその言葉に朋美さんはひとつのドアを指差し、「そこをお使いください」と言ってベッドのシーツのしわを伸ばしはじめた。
_トイレに向かう彼女の後ろ姿を見て、私は、アレ?と思った。年齢に釣り合わないほど引き締まったお尻のライン。コーデュロイのパンツを見事に履きこなしてはいるが、一部分だけが濡れたように色が変わっている。
──尿失禁?
_おそらく、さっきの倒れた時のショックでそうなったに違いないと思って、彼女がトイレに入っていくのを見届けた。
「三月さんにまで手伝ってもらって、悪いことしちゃいましたね。あとで何かサービスさせてくださいね」
「いいえ、そんな気をつかわないでください。ただ、女手が必要だと思って。それに、彼が到着するまでは時間もありそうだし」
_医務室の壁にかかる時計は、9時30分になろうとしていた。こんな時だというのに、千石さんは今どのあたりなんだろう?と考えていました。
_その時、またしてもあの時とおなじ、土嚢を落としたような重たい音がしました。それはトイレの中から聞こえた。
_私と朋美さんは、お互いの顔を見合わせて、あの女性が入っているはずのトイレのドアへ駆け寄りました。
こつこつ…こつこつ…。
_朋美さんはドアを2、3度ノックして、「大丈夫ですか?」と声をかけた。
──
──返事がない。
_今度は「開けますよ?」と言いながらノブに手をかけ、時計まわりにまわしてみた。
_彼女は鍵をかけ忘れたのか、がちゃりとドアノブがいとも簡単にまわった。
_そしてドアが開くと、そこに彼女は居た。床に尻餅をついた格好で、背中は壁にもたれかかっている。下もぜんぶ履いたままでした。意識が朦朧としているような、もしくは意識がないような、半開きの瞳。
_朋美さんは私の名前を呼んで、目で合図する。そして彼女を女2人で担いで、「あうんの呼吸」でベッドに運びました。
_ベッドを仕切るカーテンを閉めると、朋美さんは彼女の下半身を見ながら言った。
「──出血はなさそうだから、おそらく尿失禁ね。──とにかく着替えさせましょう」
_このあと私達は、異様なものを目にすることになるのでした。
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