香織は大学を卒業し、東京の大手商社に就職した。
入社式の日、黒いリクルートスーツに身を包み、胸に新卒バッジをつけて、鏡の前で何度も深呼吸した。
あの高校時代の傷は、時間とともに薄れていた。
心の奥底に残る熱い記憶は、
時折、夜のベッドで一人になったときにだけ蘇る。
でも、今は違う。
新しい人生の第一歩を踏み出す日だ。
アパートは埼玉の郊外。
毎朝、埼京線で約1時間の通勤。
新宿で乗り換え、丸の内のオフィス街へ。
満員電車は、想像以上に過酷だった。
朝のラッシュは、ぎゅうぎゅう詰めで、身動き一つ取れない。
スーツの生地が他の乗客の身体に擦れ、
息苦しい熱気が、香織の肌を包む。
彼女はいつも、ドア近くの角に身体を寄せ、
目を閉じて耐える。
イヤホンから流れる音楽が、唯一の逃げ場だった。
ある朝も、いつものように電車に押し込まれた。
新宿駅を過ぎ、池袋を過ぎ、
電車はさらに混み合い、香織の身体は前後の乗客に挟まれる。
後ろから、誰かの身体が密着してくる。
最初は、ただの混雑だと思った。
でも、すぐに違和感が走った。
誰かの手が、
スカートの上から、香織のヒップに触れた。
ゆっくり、確かめるように、
指先が布地をなでる。
香織の身体が、びくりと硬直する。
(……痴漢……?
こんな朝から……
やめて……)
心臓が激しく鳴り始める。
彼女は身体を縮こまらせ、前へ逃げようとする。
でも、満員電車の中、前も後ろも人で埋まっている。
逃げ場がない。
指は、さらに大胆になる。
スカートの生地を軽くつまみ、
ヒップの曲線をなぞるように動く。
香織の息が浅くなる。
太ももが震え、膝が折れそうになる。
(……だめ……
触らないで……
こんなところで……
高校のときの……あの記憶が……
蘇ってきて……
身体が……熱くなる……
いや……違う……
これは違う……
先生じゃない……
知らない人……
怖い……怖い……
叫びたい……
でも、声が出ない……
周りの人が……見てる……
恥ずかしい……
助けて……誰か……)
香織は必死に身体を捩り、
後ろの乗客に肘を軽く当てる。
その瞬間、手が離れた。
痴漢は、すぐに人混みに紛れて姿を消した。
香織は壁際に身体を寄せ、
震える手でスカートを押さえ、
目を閉じて息を整える。
涙が、こぼれそうになるのを、必死に堪える。
新宿駅で降り、
人混みの中を歩きながら、
香織は思う。
(……また……始まるの?
あの頃の……恐怖と……熱……
でも、今は違う……
私は、社会人……
自分で、守らなきゃ……
先生の記憶は……胸の奥にしまって……
新しい人生を……生きる……)
オフィスに着き、
デスクに座って、
深呼吸をする。
新人研修の資料を開き、
今日のタスクを確認する。
心の奥に残る震えを、
必死に抑え込む。
香織の新しい日常は、
まだ、始まったばかりだった。
満員電車、仕事、噂の残り香、
そして、時折蘇る過去の熱。
彼女は、それらすべてを抱えながら、
一歩ずつ、前へ進もうとしていた。
でも、
毎朝の電車に乗る瞬間、
彼女の心は、いつも少しだけ震える。
あの指の感触を、
忘れられないままに。
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