「何?また、休憩なの?
大地君のペースだとすぐに暗くなってしまうわ……」
また、遅れ始めた大地を義母は
振り返る。
もう、昼時に近くなっていた。
ハイキングコースは平日のためか、ほとんど人影はない。
「お義母さん、この下はどうなっているのかな?なんか水の音がするんだけど?」
道から少し外れたところに下に降りる細い獣道があり、その方角から川のせせらぎの音が聞こえてくる。
義母は額の汗をタオルで拭いながら、その獣道の方に歩を進めた。
「この下には小さな澄んだ沢があって、沢蟹なんかがいるの。
前に一度、降りたことがあるわ」
義母は指を指しながら、その景観について説明を始めた。
「ちょっと降りてみたいな。
その綺麗な沢を見てみたい……」
俺の唐突な申し出に義母は
戸惑った。
「もう、相当遅れてるのよ。
これ以上寄り道は難しいの……」
義母は身勝手な俺の頼みに軽い怒りを覚えたらしく、腰に手をあてていい加減にしてと言わんばかりだ。
しかし、俺は執拗に食い下がり、引き下がらなかった。
義母は仕方なく折れた。
「十五分だけよ。それ以上は無理だから……」
義母は先に立って獣道を降り始めた。
沢が流れる場所には直ぐに降りることができた。
二人で清水に手を浸し、早速、見つけた沢蟹を指先で摘まみあげる。
俺は辺りや降りてきた道を見上げ、この場所が他の山道から見えない死角になっている事を確認した。
「さぁ、行こうか……」 沢の水で手を清めた友里が俺を促した。
俺が今度は先を歩き、コースへ戻る獣道の登り口に立った。
「どうしたの?」動かない俺の背中に友里の声が飛んだ。
俺は振り返り、義母の美しい顔を
ジッと見据える。
「早くしないと帰れなくなるわよ」友里は俺を押し退け、横を通り過ぎようとした。
すかさず体を寄せて進路を塞ぐ。
その時、初めて義母の顔に不安が
浮かんだ。
「ふざけないで…何を考えてるの、あなた……」何かを振り払うような怒気を含んだ声が山びことなって響いた。
「お義母さん、真喜雄さんの浮気
を容認しているんですか?」
向かい合う娘婿の唐突な言葉に
友里は言葉を失った。
真喜雄は友里よりも三歳上の五十二歳だ。
都市銀行に勤める真喜雄と友里は
、友里が新卒で入行してすぐに知り合った。
一年の交際期間を経て二人は結婚。
友里はほどなくして萌を身籠り、ほとんど社会人生活をしないまま、家庭に入った。
真喜雄は優しく生活力もあり理想の夫であった。
萌の後に離れてだが、美羽も生まれこれ以上の幸せは望めないように思えた。
その模範家庭に波風が立ったのは半年ほど前の事だ。
真喜雄が銀行の後輩の三十代の
独身女性と浮気していたのだ。
もちろん、気がついたのは友里本人で、彼女は真喜雄をすぐに問い詰めた。
真喜雄はあっさり浮気を認めた。
本気ではなく、彼女の仕事上の相談に乗っていたうちに、なんとなくそういう関係になったという。
もう、彼女とはプライベートでは会わない。
キッパリと縁を切ると真喜雄は友里に頭を下げた。
友里にすれば真喜雄の不貞は許し難いものであった。
悲しみと悔しさで食欲は落ちて夜も眠れなかった。
ただ、離婚は出来なかった。
生活があった。萌や美羽がいた。
成人して、独立してる萌はともかく美羽には両親は必要だ。
友里は自分の気持ちを押さえこみ、表面だけでも許す決心をした。
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