第1章 10年後③
だが、その思いは突然踏みにじられた。麗奈の手紙が来てから3週間後に、1通の封書が届いた。差出人を見ると稚拙な文字で「新田薫」と書かれていた。玲子は読む気にもならなかったが、胸騒ぎがして封を切った。手紙は便せん1枚だけで、ひらがなの多い文章だった。
「先生はきっとこの手紙を読んでくれないかもしれないし、もしかしたらふうとうもあけてくれないかもしんない。でも、いいんです。いつか、きっと先生の前であやまりたいんです。許してもらえないかもしれないけど、あやまらないわけにはいかないんです」
たどたどしい文章ではあったが、謝りたいという文字が並んでいた。玲子に、この手紙に応える気持ちなど湧くわけがなかった。
それから2週間おきに薫から手紙が来た。2通目も読むことはしなかったが、4通目になると、さすがに封を開けて読んだ。そこには、元教師としての思いもあった。どんな過ちを起こした生徒でも、立ち直ることを信じてあげることが大切。これが玲子の教員時代の信念だった。
その手紙には、今度北海道に行って直接会って謝りたいと書いてあった。5通目には、北海道に来る日まで書いてあった。
「先生が来られるかはわからないけど、自分は必ず行き、先生が来てくれたら、土下座してでも謝りたい。」と丁寧な文字で書かれていた。6通目には、エクセルグランドホテル札幌に部屋を予約し、1階にあるノーザンテラスバルーンという喫茶室で待っていますと、具体的なホテル名やお店の名前まで書かれていた。玲子は、どの手紙にも返信をすることはなかったし、一方的な内容に憤慨もした。だが、返信をしなくても、何度も何度も手紙を書いてくることに玲子は思うのだった。
(薫君は、本当に反省しているのかもしれない。彼もずっと、あのことを引きずっているのだろう。行ってあげたほうが、彼のためにもいいのかもしれない)
エクセルグランドホテル札幌は、札幌駅の近くにある五つ星の高級ホテルだ。玲子がいま非常勤で勤務している南区役所サウザン通りセンターの近くにあり、地理的にもよくわかるところで安心できると思った。玲子は行くべきか、行かない方がいいか、毎日、悩み続けた。だあ、次第に何通も手紙を書いてきた薫の気持ちに応えたいと思うようになっていった。
薫が指定してきた日はあっという間に来た。十月の札幌は大通公園のイチョウも色づき、晩秋の気配が感じられるようになっていた。玲子はコートを着て行こうか迷ったが、指定の時間が4時であったのでフレアコートを持っていくことにした。
ホテルにはやや早めに着いた。喫茶室は全面がガラス張りになってるので、外側から薫の雰囲気を見たかったからだ。もし、以前と何の変化もないようだったら、会うことなく帰ろうと思っていた。柱の陰から喫茶室の中をのぞくと、端の方のテーブルに下を向いて座っているスーツ姿の薫がいた。テーブルにはスマホが置かれていた。玲子からの連絡を待っているのかもしれない。
玲子は髪の色がちょっと茶色っぽかったが、まじめに更生した感じの薫に安心した。玲子はお店の中に歩みを進めた。
「西田薫くん」
玲子は下を向く薫に、昔のようにフルネームで呼びかけた。薫は驚いて顔を上げた。
「せ・・・先生!」
そこには、白のブラウスに青のフレアスカート、腕にコートを持つ、昔とちっとも変っていない「玲子先生」の姿があった。玲子は、意を決して薫の前に座ると、ボーイがさっそくオーダーに来た。オレンジジュースを頼みボーイが下がると、薫は突然、立ち上がりすぐに床に頭をこすりつけるようにして土下座をした・
「先生、ごめんなさい!ほんとうにごめんなさい!」
周りの客がびっくりしてこっちを向いている。
「薫君、何をしてるの・・・、やめて、こんなところで」
「でも、俺、こうでもしないと気が済まないんだ」薫は頭をこすりつけたまま謝り続けた。
「わかったから、落ち着いて、薫君。もう、座って・・・座りなさい、薫君」
玲子はつい、以前のような指示口調になってしまった。
玲子には周りの視線が痛いほどだった。そんなことは気にせずに薫は
「だって、せ、先生・・・」と語りかけた。
玲子はすぐに小さな声で
「大きな声をださないで、薫君」と薫の声をさえぎるように話しかけた。
薫は周りをきょろきょろと見渡し、初めて周りの客が自分たちを見ていることに気が付い た。
「薫君、私は・・・・薫君が本当にあの時のことを反省し謝ってくれるなら、それでいいの。いま、一生懸命頑張っているのなら、私もそれで嬉しいわ」
薫は下を向いてまま、顔をあげようとはしなかった。
「それがわかったから、もういいわ。安心もしたわ。これで帰るわね。ありがとう、わざわざ北海道まで来てくれて。」と言って、バッグとコートを持って立ち上がろうとした。
「ま、まって、先生。」今度は小声だった。「それじゃ、まだ、俺の気がすみません。おれ・・・・、ここの25階に部屋を予約してるんです。」
「えっ・・・」玲子は驚いた。このホテルの25階から29階まではVIPルームになっていて、1泊15万から20万はする部屋で有名だった。
「おれ、先生が本当に来てくれるとは思ってなかったんだ・・・。だから、深夜までまってだめだったら泊まって帰ろうって思って、それで・・・・、先生に少しはおれ働いて金もらってるよって報告したくて・・・・見え張って、すげぇ高い部屋を予約しちゃったんだ・・・」
玲子は立ったまま、目をキラキラと輝かせながら自慢するように話す薫を見て、なんだかこどもっぽく、昔とちっとも変わってないなって笑ってしまった。
それをみて薫もニヤッと笑い、「先生、ここでだめなら、25階のルームで、一度だけ、一度だけ、真剣に謝らせてください」今度はテーブルに頭をつけて懇願するのだった。
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