5
目覚まし時計のアラームが鳴るよりも先に起きて、その小さな勝利に満悦するのが私の日課になっている。
おそらく今日の勝者も私だろうという思いで目を開けてみると、焦点が合わないながらも、部屋の中が明るすぎることに疑問を抱いた。
どうやら照明を消さずに眠ってしまったようだ──というふうに記憶を処理してみたけれど、事態はそんなに甘いものではなかった。
「おはよう」
と男性のものと思われる太い声が聞こえ、私の頭の中に立ち込めた濃い霧を晴らした。
私が目だけでそちらを窺うと、背中をこちらに向けてテレビを見ている人影があった。
それをすぐに受け入れることができず、私はまだ自分が夢から覚めていないのではないかと考えた。
「もう起きてこないんじゃないかと思ったよ」
テレビ画面を見たまま男が言う。
その背中に声をかけようと喉を開きかけたとき、私はようやく自分の置かれた状況を認識する。
口が開かない。そしてそこに貼り付いているのが粘着テープらしいということもわかる。ついでに両手、両足にもおなじテープが捲かれていて、私はウサギ跳びをするときの格好でベッドに横たわっていた。
「だいじょうぶ、君にはまだ何もしていないから」
そう言って男は何かを思い出したようにまた口を開き、
「薬品を嗅がせて、手足をテープで捲いたから、何もしていないというのは嘘になるか。そこは訂正するよ」
と首だけでこちらを振り返った。
──この世でいちばん恐ろしい光景を見た気がした。
感情が失せた目、それでいてすべてを見透かしたような鋭さが棲んでいる。口には意志の強さが滲んでいて、顎の発達した輪郭が西洋人を思わせる、それはモンスターともいうべき人相だった。
年齢はまだ三十にも届いていないだろう。しかし今日まで出会ったどの人物の顔と照合してみても、誰一人として一致する者はいない。
「んんん、んん……ん?」
あなたは誰?と閉じたままの口で私は訊いた。しかしそれは言葉にならない。
「言いたいことがあるだろうけど、それは後でゆっくり聞いてあげるよ。いま君に騒がれるわけにはいかないからね」
そう言って口の両端を微妙に歪めて笑う男。
「僕がどこの誰なのか、自分はどうして拘束されているのか、僕がどうやってこの部屋に侵入できたのか、僕の目的はいったい何なのか、……だよね?」
耳の奥に張り付くイントネーションで、私の思いを彼は言い当てた。
私はまた上体を起こそうと試みるが、どうしてなかなかうまく力が入らない。
意識ははっきりしているのに、脳からの信号が全身につたわらず、神経が遮断されているような感覚さえある。
そんな私を嘲笑い、侵入者はふたたび言葉を発した。
「君のことなら何でもわかってるさ。それとね、さっき嗅いでもらった薬が君の体内にまだ残留してるだろうから、もうしばらくは指を動かすこともできないと思うよ」
男の口臭が漂ってきそうで、私は瞬きして鼻をしかめた。おなじ空気を吸っているのも気持ち悪い。
「いいね、いいね、そのリアクション。僕だって、君に好かれたくてこんなことしてるわけじゃないからさ。どんどんやろうよ、そういう表情」
何が可笑しくて笑っているのかわからないくらい、目の前の彼は大げさに白い歯を覗かせている。
いつまでもこのままでいいわけがない。形勢逆転のチャンスは待つのではなく、こちらから行動を起こして呼び寄せなければならないだろう。
着衣は脱がされていないみたいだから、隙を見て逃げ出すことだってできる。
ただし、彼の言う薬の効果が消えて、運動神経がもとに戻ってからの話だ。
「何かを企んでいる目だな。どうだ、違うか?」
彼に言われて、私はぎくりとした。裸にされているわけでもないのに、見られちゃいけないところまで見られている気分だった。
「だから言っただろう、君のことはよく知っているって。右の乳房に黒子(ほくろ)があることも、陰毛をハート型に剃っていることもね」
嘘でしょ──と私は吸い込んでいた息を止めた。背すじの体温だけが奪われていく。
「君が薬で眠っているあいだに見たわけじゃない。だけどね、僕がいつどこで君の秘密を知ったとか、そんなくだらないことにこだわっている場合じゃないよ。だって君はこれから……僕にレイプされるんだから」
そんなことは言われなくてもわかっているつもりでいた。けれども声にして『レイプ』と告白されてみて、欲望の矛先が今まさに自分へ向けられたのだと感じた。
緊張した沈黙が訪れた。しかしそれも長くは続かない。
彼は点けっぱなしのテレビ画面に向き直り、
「面白そうな深夜番組がやってたから、ひとりで視てたんだよ」
と無機質な声で言った。
ベッドに寝転がされたまま、私もそちらを窺う。深夜番組だと言うからには、閉め切ったカーテンの向こうにはインディゴブルーの夜空が広がっているのだろう。
この部屋に時計はない。液晶テレビの四角いディスプレイには映像が流れていた。
おそらく来年の今頃には業界から姿を消しているであろう芸人らが、流行語を意識した軽快なトークを繰り広げているのだと思っていた。
だけど収録映像にそういった明るさはなく、音声にしても大人しい印象がある。
「ある一人の女性の私生活に密着した、ドキュメンタリー番組だよ」
男は、真顔と微笑のあいだくらいの表情に変わった。果たしてその真意は映像にあった。
OL風の若い女性が、どこかの個室にいるところが放映されている。
カメラアングルが明らかにおかしい。斜め上から被写体を狙った映像の下に、おなじ人物を別の角度から撮った小さなワイプ画面が見える。
「トイレの中だよ」
と彼は言った。
やっぱりそうだと私は思った。
アダルトビデオの中には、こういうジャンルのものまで出回っているのかと、私は変な感心をしてしまった。
次の瞬間、メイン画面とワイプ画面が入れ替わり、盗撮されている女性の顔がはっきりした。
素人に扮した女優さんが、いかにもそれらしく演技しているに決まってると疑わなかった。
しかしその適度に熟れたルックスを目の当たりにした私は、今度こそ救いようのない絶望と羞恥を味わうことになる。
「ここに映っている女性は、間違いなく君だよ。……さすがに驚いたようだね。そう、これは深夜番組でもなければ、アダルトビデオでもない、僕のオリジナルソフトなのさ」
女性は盗撮されて当然だという口振りで、彼はDVDデッキを指差す。自慢のコレクションとでも言いたいのだろう。
怒りを通り越した言いようのない思いが、胸の谷間の内側あたりに暗い影を落としているみたいだった。
「このトイレじつは、君が今日、会社の帰りに寄った公園、フェーマスパークの多目的トイレなんだ」
もういちいち驚かされるのも面倒臭い。
男とは、サプライズを仕掛けるのが好きな生き物だと、どこかで聞いたことがある。
逆に女は、サプライズに酔わされるのが大好きだったりする。
だけどこんな下品なサプライズは、どうにもいただけない。盗撮映像の中の私は、落ち着かない様子でスカートをたくし上げ、パンティストッキングとショーツを膝まで下げて便座に座った。
まさしく数時間前の自分がそこにいた。
「無防備な女性の姿って、ほんとうに興奮するよ。それが君みたいな美人ならなおさらだ」
彼のテンションが上がれば上がるほど、私のテンションはどこまでも沈んでいく。思い切り睨んでやりたいのに、目に力が入らない。
「君の部屋は禁煙だったかな。まあいいや。ちょっと一服させてもらうよ」
言い終える前に男は、シャツの胸ポケットから煙草とライターを取り出し、そのうちの一本を口にくわえて目をきょろきょろさせた。灰皿の代わりになりそうな物を探しているらしい。
ああ、これでいいや、とでも思ったか、彼はカップボードからティーカップを持ってきて、自分のそばに置いた。そして煙草に火をつける。
煙たそうに眉根を寄せたまま、まどろんだ色の煙を吐く彼を見ていたとき、何故だか私は懐かしい人物を思い出していた。ビートルズが好きだった昔の彼氏だ。
その人もこんなふうに煙草を指でもてあそび、こんなふうによく眉間を狭めていたのだ。
「なんだ、君も吸いたいのか?」
と招かれざる客は言った。
私は呻き声を出してそれを否定した。
男が吐き出す煙は部屋中をゆったりと漂い、嫌煙者である私の鼻腔を刺激しはじめていた。
あまり嗅いだことのない匂いだったので、私はちょっぴり意外な気がした。それでも不快なことに変わりはない。
そのあいだにも、私の盗撮映像は相変わらず垂れ流されている。
このイライラは生理のときよりも酷い。それでいて身動きができないから、別の意味で欲求不満が積もり積もって、結果、重量オーバーになってしまう。
だから私の心はいま、ぺちゃんこのライスペーパーみたいなのだろう。
「ところでさ」
とティーカップの中で煙草を揉み消しながら男がしゃべった。
「君はどんなふうにオナニーするんだ?」
そう尋ねてくる彼のいやらしい目つきは、生まれつきなのかもしれない。
私のことは何でも知っているんじゃなかったっけ──と言ってやりたい気分だった。
そうして先程から再生されている盗撮動画を停止させると、男はリモコンを操作して別のサムネイルから動画データを呼び出した。
それが再生されるとすぐに、液晶画面いっぱいに若い女性の痴態があらわれた。
*
つづく
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