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まったく面識のない顔だった。ギザギザに尖った短髪頭に、濃いめの顔立ちをした二十代半ばくらいの青年のように見える。
「あなたですよね?」
彼は唐突にそんな台詞を言った。
私は目を大きく見開き、
「なにがですか?」
と強い口調で返した。
すると彼は左手を私のほうへ差し出した。何か持っている。
「これを落としたのは、あなたですよね?」
どこかで聞いたことのある台詞だった。四角くたたまれたハンカチが彼の手にあった。
それを見て私は自分のバッグを探り、
「それ、あたしのハンカチ……」
と私物であることを認めた。
でも、どこで落としたんだろう。とりあえずここは彼に感謝しておかなければいけない。
「すみません、ありがとうございました」
不審に思いながらも、私は彼からハンカチを受け取った。
「あの……」
どこに落ちていたのか尋ねようとすると、彼は無言で踵を返し、またフードを深く被ってそのまま立ち去って行った。
電車の音が遠ざかり、遮断機が上がる気配があったけれど、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
さっき彼が放った台詞をもう一度思い出してみた。
「これを落としたのは、あなたですよね?」
青年はそう言っていた。あのとき彼が拾ってくれた物がガラスの靴だったなら、少女漫画みたいなシンデレラストーリーが始まっていたかもしれない。
しかし私はすぐにがっかりした。新しい恋ができそうな予感を裏切られたからではなく、いい歳をしてそんな夢をいつまでも見ている自分自身にである。
それにあの青年の年格好にしても、私の理想とする紳士的な人とは程遠い。
唯一の救いは、産婦人科のお世話になるような事件や事故に巻き込まれずに済んだことぐらいか。
緊張して損しちゃった。帰ってビールでも飲みますか──なんてことを決意表明する独女。
いまならノンアルコール飲料でも酔えそうな気がしたが、体がアルコールを要求していた。
途中のコンビニエンスストアで缶ビールと惣菜を買い、無愛想な店員と決まり事の言葉を交わし、店を出て、今日も色気のない一日だったなと細いため息をつく。
こんなときに誰かがそばにいてくれたら、一緒に夕飯を食べてくれる相手がいたら、仕事の愚痴を聞いてくれる同居人がいたら──そんなことばかりが私の脳内を占めていた。
『あなたはレイプされる』
通い慣れた道、見慣れたアパート、明かりの消えた部屋のドアの前、私は鍵穴に鍵を挿し、ゆっくりと手首を半回転させた。
シリンダーが動く手応えがあり、空き巣に入られた形跡がないことを確認しつつ、ドアを開けて中に入る。
玄関の壁のスイッチを探って明かりをつけると、朝出かけたときと変わらない室内が照らし出された。
トイレも、バスルームも、衣装ケースの中の下着類にも異変はない。
変質者がこの近辺を徘徊しているという噂を何度も聞いていたので、以前よりもそれなりの用心をするようになった。
定時で会社を出られたおかげで、今夜は少し長めの半身浴ができた。
湯上がりにたっぷりの保湿クリームを全身に塗り延ばし、鏡の前で乳房のかたちをチェックしながら、肌は嘘をつかないなと今更思った。
それでもなんとなく自分の裸に萌えてしまう私。一度履いたショーツを太もものあたりまで下ろし、薄めのアンダーヘアに視線を落とす。
そこを指先で軽く撫でてやると、一本一本の縮れた感触が微妙につたわってくる。
けして快感を得るほどはいじらない。いままでの経験上、それをしてしまうと指が止まらなくなるからだ。
性欲よりも食欲が優先しているうちにさっさと部屋着を着て、出来合いの夕食で胃を満たした。
カロリーだってちゃんと考えてある。会社の帰りに買った缶ビールにしても、ほんとうのビールではなく、じつはカロリーを最小限に抑えたアルコール飲料だったりする。
けれども今日は酔えなかった。朝は普通に出勤し、お昼休みを終えたくらいから体調はずっと下り坂だったような気がする。
トイレに行った回数も多かったし、誰かの囁きみたいな耳鳴りがしていたのも気になるところではある。
お昼は会社の同僚といつもの定食屋で唐揚げ定食を食べて、午後の休憩時間には他部署の人から差し入れてもらったお茶菓子をつまんだ。
いずれかのタイミングで毒でも盛られたのだろうか。
そもそも毒ってなに?二時間枠でやっているサスペンスドラマみたいに、善人の顔をした悪人がいて、リーズナブルな毒があったとする。だとしても私との接点はない。
セクハラやパワハラの気配も感じない職場で、誰もそんな発想にはならないだろう。
すっかり空き缶と化したアルミと惣菜容器のプラスチックを分別し、赤いフレームのおしゃれ眼鏡をかけてテレビを視る。
これがなかなか面白い。夏の連続ドラマはどの局もハズレばかりだったけれど、秋のドラマはアタリが多い。
私はいつものように抱き枕にまたがり、ストーリー展開次第でそれをぎゅっと抱きしめたり、ぽんぽんと叩いたり、顔を埋めて泣いたりする。エッチなこともたまにする。
二十二時まであとちょっとだ。三十二型液晶テレビのスピーカーから、聞き覚えのある歌声が流れてきた。
主題歌を歌っているのは有栖川美玲。彼女の人気が高まれば高まるほど、私はどうしようもなく嬉しくなる。
がんばれアリス──と私は彼女の成功を願う。
そろそろとベッドの上に移動して、ホットアイマスクを着けた。
およそ十分ほどで蒸気の効果は消える。それまではこうやって女の子座りをしたまま、何も考えずにただ時間が過ぎるのを待つだけだ。
そう、何も考えないつもりでいた。瞼が蒸気で蒸されて、じんわりと熱くなってくる。
会社を出てから帰宅するまでに起きた数々の奇妙な出来事が、瞼の裏に浮かんでいる。
重要だと思っていたことが些細なことだった気もするし、逆に些細なことが重要な意味を持っていたような気もする。
そんな疑念を晴らそうとすると、頭の中で危険を知らせる警報が鳴り出した。偏頭痛よりも気味の悪い痛みだった。
不快感から解放されたくて、私はまだ温かいままのホットアイマスクをそっと外した。
目の疲れは適度に解消されていたが、商品価格分の効果は得られていないようだった。
そうして改めて部屋の中を見渡すと……果たして警報の原因がそこにあった。
もう何年も寝食を過ごした自分の部屋だというのに、そこに得体の知れないものが加わるだけで、まるで他人のテリトリーに踏み込んでしまったような錯覚に陥る。
ここにいてはいけない──とまた警報が鳴った。
しかしもう手遅れだった。私は布のようなもので口を塞がれ、もがきながら空気を吸い込んだ瞬間、そこですべての感覚を奪われてしまった。
後頭部のあたりから暗闇に食べられていくように全身が重くなり、上半身、下半身と、やがて私の存在を食べ尽くした。
*
つづく
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