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トーテムポールに別れを告げ、薄暗くなった道を駅に向かって歩いた。
『あ…たは…イ…さ…る』
きれいな真円を描いた月にもほんのりと明かりが灯り、働き者の兎がぺったんことお餅をついている。
あちらの世界では労働基準法などの心配もないのだろう。人間の私はたったの三日残業がつづいただけでもう懲り懲りなのに、彼らは夜通し働きつづけているわけだからとても適わない。
ひとしきり月と兎に思いを馳せて、短い月面旅行は終わった。
一方の地上ではせわしい人波が寸分のところで交わり、それが駅の改札を挟んだあちらとこちらで渦を巻いていた。
電車はダイヤ通りにホームへ入り、それに連動するような人の流れもじつに機械的で、誰もが行と列から抜け出せないでいる。
私自身もその中の一人だと自覚している。ズレては修正、ズレては修正の繰り返し。
それはとても単純な作業に見えて、しかしそこに自分を見失ってしまうかもしれないという落とし穴が潜んでいる。
私は私、他人は他人、深く干渉しなければすべてうまくいく。けれどもやっぱり干渉してしまうのが人間なのだろう。
私は女性専用車両に乗り込み、押し詰め状態の中でどうにか吊革を握った。
加齢臭とまではいかない年齢臭だったり、デリケートな香水の匂いでむせ返す車内。
右を向いても女子、左を向いても女子、だからとうぜん姦しい。
次の駅を告げているであろう車内アナウンスも、何を言っているのかまったくわからない。
何人かの視線が私に向くので見返してやると、なんだ人違いか、といった具合に誰もが無関心を露わにする。
紛らわしくてどうもすみません──。
地下鉄の車窓に景色はなく、私は中吊り広告の文字を目で追っていった。
女性ファッション誌には目新しい特集はないようだ。
女性週刊誌はどうだろう。ここ最近の時事の動向ぐらいは頭に入れておいたほうがいいように思う。
『名門女子高校生レイプ事件の真相とミステリー』、これに関してはまだまだ明らかになっていない謎が多く残っているらしい。
『脱法ハーブ市場にメスを入れる』、関わるつもりもないし、とくに興味はない。
『遅咲きの歌姫、有栖川美玲(ありすがわみれい)が売れるわけ』、特異な経歴を持つシンガーソングライターの彼女は、知名度こそまだまだ低いけれど、とくべつな思いが私にはある。
あとは似たり寄ったりのゴシップネタばかりが目立つ。
そんなふうに電車に揺られながら、私はもう明日のことを考えていた。会社の早朝ミーティングで使う資料をファイルしたり、エクセルやパワーポイントのチェックをやらなければならないからだ。
社外秘のデータだからアパートに持ち帰って作業するわけにはいかない。ようするに誰よりも早く出勤して、単独でそれらを行わなければならない。
朝は何時に起きようか、何時に就寝しようか、視たいテレビもあるし、お風呂は、夕飯は──。
どれもこれも疎(おろそ)かにできないことばかりで、結局なにひとつ結論を出せないまま下車駅に着いてしまった。
『あ…たはレイ…される』
水面から顔を出して息継ぎするように地下から地上に出た私は、すっかり陽の落ちた暗がりの中に浮かぶネオンサインだけを頼りに、立ち止まることなく歩きつづけた。
駅から離れるにつれ、人の流れもますます枝分かれしていく。
駅まで歩いて十五分、コンビニエンスストアまでは徒歩五分、間取り云々、陽当たり良好──不動産屋で言われた通りのアパートだった。だからこのペースであと十分も歩けば帰宅できる。
そうして警戒心が解けてきたときだった。私とおなじ方向に向かう足音が背後にあった。
いったいいつからそこにいたのか、気付かずにいたのが余計に不気味さを増す。
距離を詰めるでもなく、一定の歩幅で私の後を追ってくる足音。その間に何人かの歩行者とすれ違うが、足音の主は相変わらず規則正しいリズムを刻んでいる。
やがて三叉路に差し掛かるとカーブミラーを見つけた。そこに映り込んだ自分が通り過ぎたあと、怪しい人影が追ってくるのが見えた。
パーカーのフードを深く被り、両手をポケットに突っ込んで猫背歩きをする男性だった。
私は後ろを振り返らない。怖くて振り返れないと言ったほうが正解かもしれない。歯が浮いて、唇が乾き、手汗と脇汗が私の心理を代弁している。
知らず知らずのうちに自分の歩くペースが速くなっていることに気づいた。私のパンプスの音に重なるように、男性の靴音のペースも上がる。
一瞬だけ肩が縮み上がった。どうやら彼は私に用があるらしい。その用とはいったい何なのか、少なくとも友好的な内容でないことはわかる。
私はバッグから携帯電話を探り出し、いつでも警察に通報できる準備をした。
そしてそのまま早歩きを継続すると、後ろの人物も遅れまいと早足でついて来る。
これはもう猥褻(わいせつ)目的で決まりだと思った。
脳裏でひらめくものがあり、それが私の記憶を瞬く間に幼少期へと遡らせていく。
あれは確か小学生の高学年の頃の出来事だった。クラスの女子だけが視聴覚室に集められ、そこで密かに行われたのが初めての性教育だったと記憶している。
生理と排卵と妊娠、それに避妊についての知識をそこで得た。
コンドームやピルがどういうものなのかや、セックスやオナニーなどの性行為にまで先生の話は及んだ。
聞いていたみんなの表情は一つに定まらず、好奇心と羞恥心が入り混じったような顔色をしていた気がする。
これからレイプされるかもしれないというこの状況で、なぜ私の脳はそんな昔の記憶を引き出してきたのかわからない。
乱暴されることを前提に、子宮だけは汚されてはならないと仄めかしているのだろうか。
「あの」
背中で男性の声がした。心臓が止まりそうになる瞬間だった。
その声にかまわず私が歩きつづけているところに、
「すみません」
と彼は更に言葉を発した。とうぜん無視である。立ち止まって得することなんて有り得ないからだ。
人通りの途切れた道の前方に踏切が見えてきた。ここを渡らなければアパートには帰れない。
悪いことは重なるもので、ちょうど赤い警告ランプが点滅しはじめ、遮断機が下りてくるところだった。
私は口から苛立ちを漏らす。そうして踏切のそばまで辿り着き、待ちぼうけの格好で足踏みしていると、
「やっと追いついた」
とふたたび男性の声がした。
恐る恐る振り返る私。辺り一面が赤く点滅しながら私を取り囲んでいる。
道路の五メートルぐらい先に、一人の男性が立っていた。
私は唾を飲み込み、完全に正面を彼のほうへ向けた。
そのとき、踏切内の線路上を勢い良く列車が通過した。風圧に煽られた髪がうるさく靡(なび)いて、スカートの裾が太ももを撫でる。
彼はまだパーカーのフードを深く被ったままで、いったいどんな顔立ちをしていてどんな表情を作っているのか、何一つ掴めない。
背は高く、がっしりとした体格が動物的な威圧を感じさせている。
靴はスニーカーを履いていた。その足がゆっくりとこちらに踏み出され、二人の距離は刻一刻と狭まっていく。
私はできるだけ気持ちを強く保ち、場合によっては悲鳴をあげるつもりでいた。
電車が通過したあとも、遮断機が上がる気配はなかった。反対側からも電車が来るからだろう。
そしてついに私たちは近距離で対面した。身長差がある分だけ私が見上げるかたちで、彼は私を見下ろしている。
それからパーカーのポケットに突っ込んでいた両手を抜き出し、右手でフードを外した。
*
つづく
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