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定時になっても仕事が片付きそうになかったので、およそ一時間程度の残業を覚悟していた。椅子に座ったままデスクから少し離れ、背もたれに上体をあずける格好で背伸びをする。
「……う……んんん」
体のあちこちで凝り固まった筋肉や脂肪が、ツナフレークみたいにほぐれていくのがわかる。
私は非常食ではないんだけど──なんてことを思っていたら、
「あとはあたしがやっておくから、今日はもう帰っていいよ」
と歳の近い先輩が声をかけてくれた。
とんでもないといったふうに私が社交辞令の言葉をひと言ふた言返すと、
「その代わり今度、ランチおごってよね」
と鼻筋にくしゅっと皺を寄せて笑顔をよこす。交換条件としては悪くなかった。
「それじゃあ、お言葉に甘えて、お先に失礼します」
「どっちが甘えてんだかわかんないけどね。お疲れさま」
先輩の手が私の肩をぽんと叩いたとき、微かに柔軟剤の香りが漂った。
オフィスフロアを出て、給湯室を過ぎたところに男子トイレがある。壁を挟んだ隣が女子トイレだ。
私はいちばん奥の個室に入り、下腹部の不快感をぜんぶ水に流した。おりものシートを交換して個室を出ると、ちょうど入れ替わりで何人かの女子社員とすれ違う。
「お疲れさまでえす」
「お疲れさまあ」
洗面台の鏡越しに、とくに中身のない会話を数回交わしたあと、私は一階にある女子更衣室で着替えを済ませて退社した。
『あ………………………』
外はすっかり夕暮れのオレンジ色に染まって、空気にも少しだけ冷たいものを感じるくらい、着実に秋が深まっていることを知らされる。
ここ三日ほど残業が続いていたので、この時間のこの景色を見るのは三日ぶりということになる。
人口密度の高い街といっても、身構えなきゃいけないほど都会でもないし、誰彼かまわず声をかけてくるようなイヤシイ人も少ないからよっぽど住み易い。
だけどときどき刺激が欲しくなるのは、『彼氏いない歴』をだらだらと更新しているせいかもしれない。
かれこれ数ヶ月くらいは浮いた出来事もなかったけれど、いますぐ結婚したいとも思わなくなってきているのも事実。
興味本位で参加してみた婚活パーティーでも、私の左手薬指に適う相手は見つからなかった。
来年で二十七歳を迎える独女です──なんて名刺に書くわけにもいかず、「出会いがないから」的な言い訳でお茶を濁す毎日。
ふと、道路を挟んだ向こう側で信号待ちをしている女子高生を見て、私にもあんなに輝いていた時期があったんだなあ──なんておばさん臭い感想が頭をよぎる。
歩行者用の信号が赤から青に変わるタイミングで、老若男女さまざまな人の雑踏に溶け込むように、私はふたたび帰途をたどりはじめた。
『あ………………さ……』
噴水のある公園のそばまで来た時点で、膀胱のあたりがそわそわする感覚が蘇ってきた。
ついさっき会社のトイレで済ませてきたばかりだというのに、今日は少し体調が変だなと、軽くお腹をさすった。
気温が下がってきているせいもあるし、年齢的なホルモンバランスの乱れが関わっているのかもしれない。
そうやって適当な理由を思いつくままに並べながら、私は公園の様子をぐるりと見まわした。
ベンチの下にスナック菓子らしきものが落ちていて、たくさんの雉鳩(きじばと)がそこに群がっている。小さな女の子が面白がって自分のおやつをあたえているようだ。
化粧気の少ない母親の顔は穏やかにほころんでいるし、どうやらお腹にはすでに二人目が宿っているらしく、バストの膨らみよりもそっちのほうが目立っている。
まったく別の場所では、スーツ姿の若いサラリーマンが携帯電話で何事かを話しながら、謝罪の仕草をくり返しくり返し、ハンカチで額の汗を拭っている。
次に視線を移したとき、自分の探し物は見つかった。
普段はあまり利用しない公共トイレの敷居は高い。暗い、狭い、汚い、だいたいその三つのうちのどれかが当てはまるからだ。
けれども今回は例外だった。施設の外壁はまだ真新しいクリーム色をしているから、きっと改修工事か何かをして間もないのだろう。それだけでもかなりプラスの印象を受ける。
そうして女子トイレの入り口の前まで来た瞬間、私は残念な表情をしなければならなかった。
『清掃中』の立て看板が入り口を塞ぎ、可愛らしいキャラクターがこちらに向かって申し訳なさそうに頭を下げていた。
まったくツイてないな──。
そんな不測の事態を回避すべく、私の足はもうすでに次の行動に移っていた。
多目的トイレの表示がすぐ隣にあったので、扉のそばまで進み、まずは先客がいないかどうかの確認をすることにした。
幸い、『使用中』のランプは点灯しておらず、それでも一応ノックだけはしてみた。
こつこつと二度ほどノックしてみたが、なんの反応も返ってこない。
私はその重い扉を横にスライドさせて、中に入るとすぐにロックをかけた。そうして便座に腰を落ち着かせてみたけれど、一人で使うにはあまりにも広すぎるその空間に違和感をおぼえ、出るものも出なくなった。
誰もいないはずなのに、誰かに覗かれているような感覚がある。
壁には耳、天井と床には無数の目が存在しているみたいで、それはたぶん盗聴盗撮の気配を感じるときのものだろうと思う。
そんな迷惑行為がビジネスとして成り立っていることも承知している。ネットを見れば一目瞭然だ。
十八歳にも満たない少女たちの性が盗まれ、二十代、三十代の女性へと飛び火する。
つい最近も、私が勤める会社から近距離にある路地に連れ込まれた女子高生が、何者かに乱暴されたうえ、所持品を奪われるという卑劣な事件があったばかりだ。
犯人の男はまだ捕まっていないということだから、この近辺に潜んで次のターゲットを狙っているとも限らない。
考えたくもないことが次から次へと浮かんできて、だんだん頭の中身が沸騰してくるのがわかる。
妄想がエスカレートするにつれ、うっかり、有り得ないことにまで考えが及んでいた。
だいじょうぶ、盗撮なんてただの錯覚──。
私はかぶりを振って冷静になろうとした。次にここを利用する人が、扉の外で待っているかもしれない。
どこを見つめるでもなく空中に目を向けたまま、私は用を済ませてトイレットペーパーを巻き取った。
エチケットのあとに立ち上がり、ショーツとパンティストッキングをスカートの中に収め、便器の水をちらりと見た。
尿の色がいつもと少し違う気がしたけれど、あまり深くは考えないでおこうと思った。
忘れ物がないかだけ確認していると、すぐ近くで犬の鳴き声が聞こえた。
雰囲気から推測するとして、かなりの興奮状態ではあるが、ポメラニアンあたりの小型犬に違いない。
それじゃあ飼い主はというとどうだろう、絵に描いたような富裕層の奥様が、コケティッシュなベビーカーを押している姿が目に浮かぶ。
果たして何に対して吠えているのか、私がトイレを出たときにはもう犬も主人もいなかった。
*
つづく
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