最終話
雀はいつだって時間に正確だ。
いつも通りの朝がやって来ると、花織はベッドから起き上がって、ふわぁと欠伸をした。
夕べ、あの場所からどうやって家に帰って来れたのか、記憶がまったくない。
寝ぐせのついた髪に手ぐしを通しながら洗面台まで行き、鏡に映った自分を見て変顔をしてみた。
「メイク落としてないじゃん、最悪」
冴えないにらめっこは早々と切り上げて、洗顔と歯磨きを済ませる。
郵便受けから新聞を取って、さっそく星座占いをチェックした。
「乙女座のあなた、恋愛は成就するかも……。そうなんだ、でもまさかね」
新聞をテーブルの上に置くと、さっさとそっぽを向いて携帯電話をいじりはじめる。
あ、メールだ。
メールの着信を知らせるアイコンがあった。
送信者は小田佑介だった。
『おはよう。夕べはいろいろ大変だったけど、ちゃんと眠れたか?優子は検査入院で病院にいるから心配いらない。S病院の210号室だ。あと、昨日俺が言ったことは忘れてくれ』
昨日、小田くんは私に何を言っていたんだろう?
そのあたりがどうしても思い出せない。
とても大切なこと、とだけ記憶している。
花織の中で小田の存在が大きくなっていた事だけは、疑いようのない事実だった。
*
数日後、黒城和哉は、高校時代の恩師でもある秋本文子と共に姿を消した。
彼は彼女と生きていくことを選択し、自分が犯してきた罪から逃げようとした。
しかし、男女の関係にあった二人が駆け落ち同然になにもかもを捨てて手に入れたものは、先の見えない逃亡生活に他ならない。
小田は、自分の推理が彼を追い込んでしまったことを後悔したが、ひとつの強姦事件を解決できたことに自己満足もしていた。
黒城和哉はただ現実から逃げる為に姿を消したわけではなかった。
自分が触れてしまった犯罪の匂いを忘れたかったからなのか、自身が接触した五人の女の子たち宛てに、ある物を送りつけていた。
「薬」と名の付く物に関しては知識を蓄えていた黒城だからこそ、媚薬にも詳しく、またその逆も知り得たのだ。
黒城が最後に残していったもの、それは「デリシャス・フィア」の副作用を相殺させる効力をもった「ピリオド」という内服薬だった。
「薬の名前なんて誰が付けたのかわかったもんじゃない。可愛い名前の裏にある得体の知れない成分を知っておくことと、使い方さえ間違わなければ大して害はないさ」
いつだか黒城が自慢げに話していたことを花織は思い出す。
お見舞いがてらに、優子のことをからかいに行ってやるか。
花織は自分のアパートを出て、駅に向かう道とは違うルートを歩き出す。
やがてバス停のまるい表示板が見えてくると、足取りはいっそう軽やかになる。
鼻歌でも歌いたくなる気分をこらえて、ポケットからモバイルオーディオのイヤホンを取り出し、くすぐったそうに耳に着けた。
街の風景に溶け込んでいるその後ろ姿は、とても魅力的で、無防備だ。
花織よりも高い位置からの目線が、目標物を捉えて背後から近づく。
さりげなく様子を伺いながら、それはもう日常の中の自然な出来事と変わらないモーションで、目的を果たそうとしていた。
緊張した息遣いがすぐそばまで迫っているというのに、花織は首を傾げてエッジの効いたエレキギターに聴き入っている。
もう二人のあいだに距離はない。
……え?
花織は何かの気配に気づいて後ろを振り返り、そこにいた人物の顔を確かに見た。
*
バスは時刻通りにバス停にさしかかったが、そこに人がいないのを確認すると、速度を上げてそのまま通り過ぎて行った。
その風景がフェイドアウトしてスクリーンが真っ暗になった直後、「デリシャス・フィア」の文字が浮き出たかと思うと、血を流したようにタイトルが溶けていく。
そこでようやくエンドロールが流れはじめる。
岬花織
霧嶋優子
小田佑介
黒城和哉
平家洋
美山砂羽
徳寺麻美
植原咲
秋本文子
数馬良久
S大学ミステリー同好会スタッフ一同
動画が終わると部屋の照明が点けられ、学生の一人がパソコンからUSBを引き抜く。
それを合図に、気持ちいいほどの拍手と歓声が部屋中に湧き上がって、そこにいる全員の表情に光が射した。
ハイタッチ、笑顔、肩を組み合う仲間、この時ばかりは男子と女子のボーダーラインを越えて、それぞれが睦まじく喜びを分かち合った。
「グッジョブ!」
「いいじゃん、いいじゃん!」
「まあ、オレの才能のおかげだと言って欲しいね」
「よく言う。さんざん女子にこんな事やらせておいて」
「けどさあ、やっぱり学園祭でこんなの上映するのはヤバいよな?」
「男子は好きかも知れないけど、女子はぜったいひいちゃうよ」
「そう?私は好きだけど」
「本当に裸になったわけじゃないんだし、観たい子にだけ観てもらったらいいんじゃない?」
「いくらフィクションだからってさ、カズヤが犯人ていうのは笑える」
「ヒロシ先生も教授じゃなくて准教授なのに、偉くなったもんだな」
「オダのセリフもウケる。『今の俺には花織が必要だ』なんて。クッ」
「笑うな」
「そういえばカオリンがいないみたいだけど」
「あれ?ユウコは何も聞いてないのか?」
「あ、ミサキ先輩ならバイトがあるからって、途中で帰っちゃいましたよ」
「まさかフーゾクのバイト?」
「んなわけないでしょ。ホールスタッフらしいよ」
「話もどすけどさあ」
「勝手にもどすなよ」
「講堂にいたカオリをアパートまで連れてったのって、誰?」
「あれってオダが連れて帰るって設定じゃなかったっけ?」
「オレはひとりで帰ったよ」
「そうだっけ?」
「あとあれ、最後のバス停でカオリンが連れ去られるシーンて、あんなのあった?」
「それってまさかサプライズってやつ?」
「オレそんなシーン撮った覚えないけど」
「まあいいんじゃないですか?だってミサキ先輩ルックスいいから、もっと出しちゃえばいいんですよ」
「本当のミスキャンパスって、カオリンだもんね」
「ねえ、はやく打ち上げパーティー行こうよ」
「車、誰が出してくれんの?」
「オレ、今日はノンアルにしとくわ」
「とか言って結局飲んじゃうくせに」
誰かがなんだかんだ言い出せば、また誰かがなんだかんだ言い返す。
みんながそれぞれの情熱を持ち寄って、かけがえのない時間を共有する。
そうやって絆と絆が束になって、さらに太い絆になっていくのだと、ここにいる誰もがそう思った。
冗談と笑い声がざわざわと散らばって、誰もいなくなった部屋のデスクの上には、まだ熱を残したままのパソコンと、誰かが忘れていったUSBだけが静けさの中にあった。
*
岬花織のアパートの郵便受けには配達された新聞が挟まったままになっていて、その他の郵便物をなにがなんでも受け入れまいと幅をきかせていた。
大学のミステリー同好会が企画したショートフィルムの撮影も無事終了し、バイトも途中で抜け出して、今頃はサークルの仲間とお酒を飲みながら盛り上がっていたはずなのに、自分はどうしてこんな状況の中にいるのだろうか。
ビデオカメラは三脚の上でこちらを狙っているし、撮影はまだ終わっていなかったのか。
そろそろお腹が空いてきてもいい時刻なのに、食欲がわいてこない。
それどころか、もっとも汚らわしい欲求が脳から信号を発信している。
こういう生理現象を英語で何て言っただろうか。
半身浴をしているみたいに体中が熱くなって、下半身だけがぶよぶよにふやけて濡れている。
目の前にいるこの人は撮影スタッフなのだろうか。
だとしても被写体の私には肌を隠すものが何ひとつないし、演技じゃない言葉が勝手に口から漏れて止まらない。
カラオケに行った時だって、こんなに声が裏返ったことなんてなかったはず。
そうだ、昔レディコミで読んだ色っぽいセリフを真似て言ってみたら、この状況が理解できるかも知れない。
こんな感じだったかな。
「ああ……やだ……、おかしくなっちゃうよ……」
なるほど、言ってみるとアソコに鳥肌が立ちそうになるほど気持ちいい。
膣の粘膜がすり減っていく感覚は、目の前の男の人が腰を振ったり、舌で舐められたり、指でかき混ぜられると敏感にわかる。
さあどうしようか。
そろそろ我慢ができなくなってきた。
セックスなのか、レイプなのか、現実なのか、夢なのか、幸福なのか、恐怖なのか、どうでもよくなってきた。
ただもう、女の子が口にするには恥ずかしすぎる言葉を吐息にして、絶頂の中をさまよっていたい。
「ああん……あっ……、おま……こ、あっあっあっ、イク……イクイク……、お……んこ、だめだめ、あっ……あっ……」
花織が白眼を剥いてぐったりするのを確認すると、男は脂ぎった唇を動かして、オーガズムの回数をカウントした。
「これで七回目か……」
冷ややかな眼差しは花織の日常生活を根こそぎ奪い、深層心理(ディープ)を読み取って、絶頂……意識喪失……覚醒のサイクルをいつまでも繰り返していた。
*
それから三日後、市内のあるアパートの一室で全裸の女子大生が発見され、72時間ものあいだ監禁状態でレイプされ続けたというニュースが、世間を騒がすことになるのだった。
「性をもてあそぶ者は、性で償え。トリック・オア・トリート」
おわり
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