13
月明かりのせいで青白く染まったファミリアホールの屋根には、英才と貞淑を意味する巨大な紋章が掲げられ、誇らしげにこちらを見下ろしている。
昼間のマスコミ連中はどこかで待機しているのだろうか、その姿はない。
メールの内容をもう一度確認する。
『わたしに会いたかったら、今夜22時にキャンパスのファミリアホールに来て。花織ひとりで』
優子を装った誰かがこのメールを送ってきたことは明らかだけど、優子は必ずそこにいるはず。
花織が深呼吸をすると、胸のふくらみが服の中でふかふかと揺れた。
夜風が冷たく吹き抜けて、掲示板のポスターのめくれをはためかせている。
足元では虫が鳴いている。
扉は花織の手のひらをずしりと重く押し返して、開かれるのを拒んでいるようだ。
暖められた空気が建物の中から漏れてきて、薄暗い視界の先に舞台が見えてきた。
それを取り囲むように座席が湾曲して並んでいる。
昼間のそれとは違った異様な空間が、花織に警告を発していた。
腕組みをして脇の下に手を挟むと、舞台に向かう通路の段差に一歩を踏み出した。
カコン……。
ブーツを鳴らした音が反射して追いかけてくる。
汗で蒸れた足を前に進めて、舞台を目指して段差を下りていく。
ゆっくり、慎重に、そう……それはオナニーするみたいにたっぷり時間をかけて、目的を果たすまであわてない。
性欲は置いてきたつもりだった。
けれども媚薬の成分は花織の婦人神経と複雑に絡み合い、快楽の穴をふくらませていく。
私はそんな女の子じゃない。
あの薬がいけないんだ。
どうやったらこのムズムズが治まってくれるのかわからないんだよ。
おねがい……、もうやめて……。
気がつくと花織は舞台の中央にいた。
今すぐにでも股間に手を伸ばしたい気持ちを我慢して、今日の乙女座の運勢見るの忘れちゃった、と心で呟く。
そして優子の色気話に懐かしさを思いながら、バックヤードの方へと足を向ける。
こんな時だというのに、いや、そこはやはり可愛らしいというか、暗い通路の向こうに幽霊の存在を信用してしまう気分になっていた。
「……?」
花織の目になにかが映った。
なんだろうと思ってしゃがみ込み、床に落ちているそれに目を凝らす。
バッグから携帯電話を取り出して、画面の明かりを当ててみた。
頼りない光の先にぼやけた輪郭が浮かび上がり、とたんに花織の表情が一変する。
それは見覚えのあるシュシュだった。
「優子……」
グロスが乾ききった唇をほとんど動かさないで、ぽつりと名前をこぼす。
どうか無事でいて欲しいと祈る思いでシュシュを拾い上げてみると、数メートル先にまた別のなにかが落ちているのが見えた。
女性用の上着、またその先にはスカート、長袖のシャツ、スパッツ、キャミソール……。
そして予想していた通りに、ブラジャーとショーツがおなじ場所に脱ぎ捨てられている。
そこは倉庫の扉に突き当たった場所だった。
おそらくこの扉の向こうには優子がいて、心無い男の前で恥ずかしい姿にさせられているに違いない。
でも私がそれを目にした瞬間、私への乱暴が約束されてしまう。
こんな事ならあんなサイトに登録するんじゃなかった。
元はといえば通販サイトで買ったサプリメントの中身を疑わなかった自分の不注意から始まった事だけど、媚薬はもうこの体に染み付いているし、つくづく自分が情けない。
あん、もう、運転免許だってまだ取ってないし、海外留学もしたいのに、こんなところで寄り道してる暇なんかないって。
ああ……、レイプなんてされたくないよ……。
だけど優子も大事だし、どうしよう。
こんな時に小田くんがいてくれたら……。
閉ざされた扉の前でなかなか決心できずにいると、建物のどこかで人の足音が聞こえたような気がした。
いや、耳を澄ませると確かに聞こえる。
歩幅は広めで、足音のトーンは低く、迷わずこちらに近づいてくる。
じりじり、じわじわ、その距離はどんどん縮まっていく。
花織は足音がする暗闇の方を見て、今度は優子が閉じ込められているであろう倉庫の扉を見た。
暗闇……、扉……、足音……、優子……、交互に振り返っているあいだにも何者かの気配は迫ってくる。
「いや!」
その瞬間、自分の手がどう動いて足をどちらに踏み出したのか、見えない力に背中を押されたのか、花織は倉庫の中へ転げていた。
バッグの中身が床に散乱する。
手帳も化粧ポーチも携帯電話も、どうにも手がつけられないほどあちこちに散らばって、その中からサプリメントの入ったピルケースがひとつ、勢い良く床を滑っていった。
それが何かに当たってパキンと音をたてた時、花織はようやく顔を上げた。
薄汚れて埃っぽい床を想像していた花織の目には、綺麗に磨かれたフローリングと、鏡のような水溜まりが映っていた。
正しい状況判断をするにはもう少し時間がかかりそうだ。
どうしてこの部屋の床は濡れているのだろう。
どうしてたくさんのパイプ椅子が不自然に組み合わさっているのだろう。
どうしてその椅子の上に学園祭の衣装を着たマネキンがあるのだろう。
つぎつぎに湧いてくる疑問点を整理していくうちに、花織はあることに気づく。
そういえば優子がいない。
それに私に迫っていた足音も聞こえないし、その姿もない。
媚薬に手を出したせいで、私はとうとうおかしくなってしまったのだろうか。
誰かの息づかいが確かに聞こえているのに、ここには私一人しかいない。
ありえない状況の中で花織の瞳はめまぐるしく動き回り、ある場所で止まる。
マネキン……、学園祭……、黒い衣装……。
見れば見るほどよくできている。
天井から垂れ下がっている三本のロープはそれぞれ、マネキンの胴体と両脚を吊し上げ、お尻の部分をその下のパイプ椅子の座面に座らせている。
つばの広いトンガリ帽子で頭部を隠し、こうもり傘みたいなマントを広げ、はだけた胸の谷間から乳首までリアルに膨らんでいる。
今風なニーハイブーツをスマートに履きこなし、その豊かな太ももから視線をなぞっていくと、なんとも生々しい下腹部が果肉の断面を思わせるほど濡れている。
そしてそこに突き刺さっているのは、魔女にふさわしいホウキだ。
柄の部分にくくりつけられた太いバイブレーターが、人形の性器をぐにゃぐにゃと掻きあさって、粘り気のある液体を垂れ流させている。
そのおかげで床に水溜まりをつくった部屋ができあがるのだった。
いったい誰がどんな目的でマネキンにこんな悪戯をしたのだろうか。
膣の場所からは噛み合わせの悪い音がくちゅくちゅと聞こえてくるし、女の子の生活臭というか、恥ずかしい匂いも漂ってくる。
やだもう、私のあそこ、なんだか重たくなってきちゃった。
花織がそうやってクリトリス周辺をもやもやさせていると、倉庫内の空気が微かに動くのがわかった。
やっぱり誰かいる。
カボチャのお面……、違う。
ゴーストの白いテーブルクロス……、これも違う。
だとしたら……。
花織の視線はもうそこから離れない。
その時だった。
魔女の姿をしたマネキンの体が大きく波打って、白い乳房は羨ましいほど揺さぶられ、異物をくわえた膣口からは絶頂のサインが飛沫(しぶき)をあげて吹き出した。
「っ……、あっ……、うっ、ぐっ、んっ、……、……」
痙攣した声が細々と聞こえたのと同時に、頭部を隠していた三角帽子がはらりと落ちた。
そこから現れたのは、赤々と火照った頬と、汗の粒が滲む額と、さまよう目と、湿った唇。
すべてのパーツを頭の中の記憶に当てはめてみると、それは霧嶋優子とほぼ一致するのだった。
あれ?優子にそっくりだ。
ていうか優子だよ、これ。
そっか、私は優子に会わせてもらう為にここに呼び出されて、そうしたら優子がいたわけだから、驚くほどのことでもないじゃん。
でも何でだろう、全身の力が抜けて立てないし、泣きたくないのに涙が出てくる。
悲しい出来事が起きると、人は誰でもこんなふうに胸が寒くなって、目の前の事実を否定しようとするのだろうか。
局部を責め続ける甘い刺激に気を失いかけている優子の前で、花織の意識は感情ごと真っ逆さまに落ちていった。
優子は人に犯されたのではなく、最強の媚薬「デリシャス・フィア」に犯されていた。
花織もまた自分が彼女のように変わり果ててしまうかも知れないという恐怖と快感で、その場に失禁した。
その直後、視界を遮る手のひらが見えたかと思うと、誰かに後ろから抱きつかれる格好で体を絞められた。
抵抗する気力はもうほとんど残っていなかった。
されるがままに体を預けていると、背後から声が聞こえた。
「見ちゃダメだ!」
その声には聞き覚えがある。
「俺が推理ゲームだなんて興奮していたから、結局優子を助けてやれなかった。ごめん」
私に何か言ってくれているけど、言葉を理解できる状態じゃない。
でも、とても安心する声。
「もう終わったよ。花織は大丈夫だ。花織だけでも助けることが出来て良かった」
彼がしゃべるたびに、彼の喉仏が私の髪を撫でている。
「もっとはやく自分の気持ちに気づいていたら……、花織のことが好きだって気づいていたら……」
なんだかわからないけど、とても幸せな気持ちが溢れてくる。
ほかの事は何も考えたくない。
今はだだずっとこうしていたい。
色々ありすぎて、なんだか疲れちゃったな……。
小田佑介の腕の中で、岬花織は深い眠りに就いた。
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