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_ショッピングモールのエントランスはたくさんの人を吸い込み、吐き出してはまた吸い込み、人の流れは血管をとおる血液のように循環して、目的を持った者とそうでない者とがせわしく交錯している。
_ここに来ればたいがいの用が済んでしまうことを考えれば、それだけで小さな街だとも言えるだろう。
_外は生憎(あいにく)の雨だ。
_屋内だというのに外よりも明るく照りつける照明に、つい天気を忘れてしまいがちになる。
_それでも、個性的なショップの「顔」でもあるディスプレイに目を向けてみれば、季節ごとに違った表情を見せるファッションや雑貨やスイーツに至るまでが四季を感じさせてくれている。
_たとえば海の向こうの文化と日本文化が同居している場面を目にしたとしても、やはりそこは日本人の海外への憧れなのか、ふしぎと違和感は感じない。
今年もハロウィンの時季が来たのね。
_そう思いながら立ち止まるが、またすぐにヒールの先を別の方へと向けなおして、昼だか夜だかわからないモールの中を人混みにまぎれて歩き出す。
_ふと携帯電話の背面の小窓に視線をおとす。
_22時を少し過ぎていた。
終電には間に合うか。
_彼女はレストルーム手前の「青い人」と「赤い人」を見比べたあと、とうぜん「赤い人」の方の部屋へと入る。
_監視社会となってしまった現代といえども、さすがに女性のそれを監視カメラで追うわけにはいかない。
_だからこそこの部屋にはなにか特別な匂いがするらしい。
_といっても鼻で嗅ぐ匂いとはまたニュアンスがちがうのだ。
_ある時は、試着室のカーテンの向こうから漏れてくる、着衣が脱げるときに肌をすべる音。
_ある時は、甘い緊張の表情を浮かべて診察を待つ、女性ばかりの産婦人科の待ち合い。
_そんなふうになにげない日常の場面とその人が持つ嗜好の波長とが合ったとき、彼らにしか嗅ぎ分けられない特別な匂いがするのかも知れない。
_彼女たちの意図しないところで誰かが鼻を利かせているとすれば、それは多分そういうことだろう。
_こういうところのトイレはたいてい清潔に保たれていて、彼女が個室の扉を開けたときには、期待を裏切らない空間がそこにあった。
_便座に座ってホッと緊張を抜くと、下腹部を不快にさせていたものが一気に排水されていく。
_と同時に、その音をかき消すために何度か水を流した。
_たしかここに来たときには隣の扉も閉まっていたから、そこに人の気配があってもおかしくないのだけれど……、と物音ひとつたてない隣人に注意をはらいつつ、彼女はバッグの中身をさぐった。
_そしてマトリョーシカ人形を扱うみたいに、バッグの中からポーチを取り出しさらにその中からエチケットポーチを取り出しさらに──といった具合に、いちばん小さなマトリョーシカである生理用品の包みを膝の上でひらく。
_三つ折りの白い吸収シートを剥がして、その粘着面を神経質な手つきでショーツにあてがう。
_が、今日にかぎってこれがなかなか何度やってもうまくいかない。
もうっ、なんなのよ。
_性器を露出したまま口の中で「チッ」と舌打ちしていたときだった。
_彼女の足もとで動くものがあった。
_隣の部屋とを仕切る板の下の部分には、数センチの隙間があいている。
_そこに隣人の影が映っているのだと疑わなかった。
_しかし事態は彼女の思うところとは違っていた。
「きゃあああ!」
_女性の悲鳴というのは、それだけで性犯罪と結びつけさせてしまう要素がある。
_ほぼ密室状態のレストルームで彼女が見たもの。
_それは、仕切り板の下の隙間からこちらを狙う、携帯電話のカメラだった。
*
「また飲みすぎちゃった……、あいた、痛、痛……」
_起き抜けのパジャマ姿のまま、花織はすっぴんの眉間にシワを寄せた。
_テーブルに散らかった酎ハイの空き缶が、不快なアルコール臭を放っている。
「でこぴーん」
_空き缶のおでこを指ではじき飛ばし、そこに朝刊をひろげた。
「今日から新ドラ始まるんじゃん」
_いつも通りテレビ番組欄から目を通す。
_キャンパスライフを送る上で必要不可欠なことは、「活字を読むこと」と「空気を読むこと」と自分で勝手に決めていた。
「乙女座のあなた、朗報あり?」
_夕べの酔いが残ったままの目つきで星座占いの欄に睨みをきかせていたとき、絶妙なタイミングで携帯電話の着信音が鳴った。
「もしもし?」
まさか朗報?
「お姉さん……今日はどんな下着履いてるの……?おっぱい何カップ……?」
_電話の向こうからは下劣な言葉が返ってきた。
変質者め。
「まったくこんな朝早くから何なのよ、優子」
「おはよう花織。ほらきのうのコンパ、花織、途中で帰っちゃったからさぁ」
「だって音大生っていうから期待してたのに、なんか自分たちだけで盛り上がっちゃってて、女子ほったらかしなんだもん」
「花織が帰ってからもずっとあの調子だったんだから。あの温度差には私もまいったわ。で、どんな下着履いてるの?」
「うんとね、白のローライズ……って言わせる?」
_下ネタ好きの優子とは対照的に、清純を絵に描いたような花織。
_大学に入ったばかりの頃は二人ともなにかと浮かれていたが、三年生になってみるとさすがに「就活」の文字が遊び心にブレーキをかけ始める。
_とは言え「合コンは別腹」だと口をそろえては、コンスタントに異性の人脈をひろげていった。
「ランチ一緒しない?花織のおごりで」
「なんでそうなるのよ。それが金欠大学生に言うセリフ?」
「じゃあいつものカフェで合流ね」
「あん、ちょっと優子、ひとの話聞いてる?」
_すでに通話の切れた携帯電話をうらめしくテーブルに置くと、花織はふたたび朝刊に視線を向ける。
_そしてある記事に目をとめた。
「大型商業施設内の女子トイレで強姦か……。被害者の女性は保護されたが、通報した女性は行方不明……」
_不愉快なものを見る眼差しで最後まで読み終えると、「どうせすぐに捕まっちゃうんだから。リスクの計算ぐらいできないのかしら」と冷めたトーンで息を吐いた。
_いちどカーテンを開けて朝日を部屋に呼び込んだけれど、自分がまだパジャマ姿でいることに気づいてすぐに閉めきった。
「女子トイレで女の子を襲うなんて、どうかしてる」
_そんなことを呟きながらパジャマを脱いでみると、トイレでレイプされた彼女と自分とが重なって、色気のないショーツでも一段と卑猥に見えてくる。
ひとり暮らしの女子大生なのだから、もっとちゃんとしなきゃ。
_花織は、自分の乳房や太ももの肌色がだんだん女っぽく赤らんでくるのを、この時だけは不潔だと思った。
_体中から分泌されているものは目には見えていないけれど、それは確かに異性を惑わせる匂いを出していた。
私ってこんなに女臭かったっけ。
_髪の毛先で上唇をくすぐりつつ、もやもやとしたその香りのつづきを嗅いでいた。
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