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焦げ茶色のクラシックカラーが鮮やかなメタリックの車体に、まだ新しい初心者マークが貼り付いている。
タイヤの溝も深いジグザグを描いているし、どこかをぶつけたようなキズやヘコミも見当たらない。
バックミラーに可愛らしいチャームをいくつもぶら下げ、ステアリングカバーのキャラクターが若い女性ドライバーをほのめかす。
晴れの昼間だというのにヘッドライトを点けっぱなしにして、ワイパーはフロントガラスをカラ拭きしている。
車内をうかがってみると、運転席と助手席に人影は見えなかったが、後部座席側のスモークガラス越しに女性の姿が確認できた。
若い女性だ。
おそらくこの車の持ち主だろうか、事故車でないところを見ると、お酒を飲み過ぎて酔いつぶれたまま眠ってしまったか、あるいは飲酒運転をしない為に酔いをさましているのか。
それにしてもエンジンをかけたままで、駐車スペースからも大きくはみ出しているこの状況は、迷惑だ。
意を決してドアをノックしてみる。
しかし車内の人影は動く気配もない。
今度はドアに指をかけてみた。
するとドアはあっけないほど軽々と開き、たちまち新車の匂いと芳香剤の香りが混じった空気が外に漏れ出してきた。
そしてリアシートに横たわる彼女に声をかけようとした時、その姿にさっきまでの正義感は跡形もなく崩れていった。
玩具の手錠が両手両足の自由を奪い、軟らかく折りたたんだ下半身だけを艶めかしく露出して、美人な容姿にはふさわしくない物が彼女の股間を犯していた。
こちら側から見て右回転でノロノロと動くその玩具は、穴掘り工事でもしているみたいに、恥部から溢れる分泌液を白く泡立てている。
ねちねち、ねちねち、陰湿ないたずらに音をたてる紅いヒダ。
半目を開いた潤んだ瞳はどこを見ているのか、口元には唾液のすじが糸を引いて、演技では出せない本気の声を、……っ、……っ、……っ、とひきつらせている。
おそらく彼女の性器は限界までイキ続けていたのだろう。
シガレット電源と直結させた特殊な改造バイブレーターの太い胴回りに、逃れられない快感と、膣を持って生まれたことの宿命を感じているのかも知れない。
剥がれたネイルチップは意味もなくキラキラしていて、座席のクッションに新しい染みができるたびに、経験者にしかわからない「セックス臭」が湧いてくるのだった。
*
ついに第三の強姦事件が起きてしまった。
運転免許証から被害者がS大学二年の植原咲であることが判明し、女子大生連続強姦事件としていよいよ警察も本腰を入れ直して動きだした。
第二の事件の被害者である徳寺麻美の携帯電話を現場から持ち去ったことについても、とうぜん探っておかなくてはならない要素である。
徳寺麻美のメールの着信履歴を調べてみると、一件だけ気味の悪いメッセージが入っているものがあった。
『キョウフノサキニカイラクガアル。トリック・オア・トリート。』
さらに調べを進めていくと、同じ日時に同じ内容のメールが、植原咲と、第一の事件の被害者である美山砂羽のもとへも送られていた。
それは身に覚えのない迷惑メールではなく、その発信元は、被害者三人が共に登録しているアダルトブログサイトであると、彼女らの証言が一致した。
がしかし、確認の為にそのサイトにアクセスしようとしても、すでにサイトの存在自体が蒸発していたのだった。
この手のサイトにはよくある事で、捜査の熱が冷めたころにまたひょっこりと姿を現し、イタチごっこの図式がそこに出来上がる。
ずるがしこく、口説き落としたくなるほど美麗なイタチだ、今回だけはなにがなんでも尻尾を掴みたいに違いない。
*
誰ひとり命を落としていないというのに、その胃液を逆流させるような現場の状況は何を語っているのか。
男と女のあいだに生まれる独占欲には、何かしらの恋愛感情が作用しているものなのだが、強姦現場から伝わってくる感情はいつも独特な冷血さを漂わせている。
「いやー!やめて!」
「たすけて……だれか……」
「ゆるして……おねがい……」
「あっ……あああ……んん……もうだめ……」
はじめのうちは、女性の人格を無視した行為を受け入れまいと拒絶していたが、男の腕の中で敏感な部分を転がされているうちに、だんだんと淫らな催眠状態になっていく被害者の声なき声が聞こえてくるようだ。
犯人はいったいどのような心理状態でその光景を眺めていたのだろうか。
性犯罪で涙を流すのはいつも女性の方なのだ。
それは被害者だけではなく、みな同じ大学の可愛い後輩ということもあり、花織にすれば自分に迫り来る恐怖に泣きたい気分だった。
そんな時、ごった返すマスコミ連中から逃れてカフェに居た花織の携帯電話に、小田からのメールが届いた。
『彼女たちの脱水症状の原因がわかったよ。やっぱり薬だ。それもかなり変種の媚薬らしい。黒城から媚薬の種類をいくつか聞いたから、次のメールを待っていてくれ』
その内容を見た花織が目をまるくしていると、小田からの二通目のメールが着信音を鳴らした。
『媚薬にはランクが存在するらしい。ビギナ・ヴァギナ(未熟な膣)、これは名前の通り、初心者向けの薬。グラマラス・ドリップ(豊かな淫液)、性体験や自慰経験があれば抵抗なく使える中級用の薬。熟年用としては、キング・アンド・クイーン(王と妃の戯れ)などがあって、おそらくこのランクまでなら比較的手に入りやすいはずだ。ここからが重要なんだが、それらをしのぐほど強い媚薬があるらしい。デリシャス・フィア(甘美な性的恐怖)。こいつは依存性が高く、女性のほとんどは極度な興奮状態がつづいて脱水症状が出ると言われている。マニアの間でしか流通しないハイリスクな媚薬が、ネットのおかげで簡単に手に入る時代になって、それを象徴する事件こそが今回の女子大生連続強姦事件というわけだ』
小田と黒城が解き明かした脱水症状の正体に、花織は納得の表情を浮かべた。
そしてメールの内容をもう一度読み返してみて、ある事に気づく。
これは女子大生連続強姦事件なのだから、レイプは連続している。
つまり第三のレイプが執行された時、それは同時に第四のレイプの予告なのだ。
次に狙われるのは、植原咲を発見した人物ということになる。
第一発見者はいったい誰なのか、花織にはもうその人物の親しみ慣れた面影しか頭に浮かんでいない。
「優子……」
声に出してその名前をつぶやいてみて、大切な親友の羞恥に染まるほっぺが目の裏側に見えてくるような気がした。
「けほっ……けほっ……んっ……」
気持ちばかりが焦って軽く咳き込んだあと、花織は言いたい事もまとまらないうちに小田へ電話をした。
「もしもし小田くん?あれ、なんだっけ、ああ……、大事なことが……」
「どうした?メールは読んでくれたか?」
「あ、うん、媚薬のせいでみんなおかしくなっちゃったんだね、きっと。普通の女の子がああいうエッチなサイトに興味が湧いたのも、たぶん薬のせいで……あ、あのね、それで優子のことなんだけど。優子がね……」
「平家先生が犯人なら、次に狙われるのが優子だって言いたいんだろう?まったくあの教授も変なチームをつくったもんだな」
「小田くん。このあいだ優子が『ちょっと気になる事があるから、徳寺麻美さんが被害に遭った現場に行ってみる』とか言ってて、もしかしたら平家先生と事件を結びつける証拠とかを知ってしまったんじゃないかと思って」
「証拠ってなんだ?」
「わかんない。ねえ?植原咲さんが自分の車の中で半分裸の状態で見つかったって聞いたけど、第一発見者って……誰なの?」
「それはまだ俺も調べていない。花織?この事件のあとに優子とメールとか電話で話したか?」
「ううん、だって何だか……その……確かめるのが怖くて」
もうさっきからずっと電話を持つ手が震えていることに、花織は気づかないフリをしていた。
それに喉が渇く。
ペットボトルの飲み口を唇にあてて、水を飲みこむ音を電話口にまで響かせた。
それを聞いた小田の眉が一瞬歪む。
最近の花織の行動の変化といえば、よく持ち歩いている水筒、それに先日花織の部屋で見た色っぽい玩具。
あんなものに手を出すような性格じゃないと思っていたのに、女性の心理にはまだまだわからない事が埋もれているのだと、つい花織の自慰を想像してしまう小田だった。
植原咲が徳寺麻美の携帯電話を持ち去った理由についても、そこに残っていた履歴からアダルトサイトの存在を明かされ、ついには自身のブログの淫らな画像が世間に晒されるのを恐れたからであって、「見られたい」けど「見られたくない」という女性心理の矛盾をあらわしている。
「とにかく、今すぐ優子にメールしよう」
そう言って小田が電話を切ると、花織は優子にメールを送信した。
『いまどこ?』
短いメッセージに祈りを込めて、どうか無事でいてと唇を結んだ。
空気が緊張して耳鳴りがする。
平家洋のアリバイは?
彼女たちの体内に残っていた精液について容疑者が否認する理由は?
優子の安否は?
犯人の人物像は?
いろんな不安要素がいちどに押し寄せてきて、誰かにそばにいて欲しい気持ちが溢れてきた。
一円の価値もない凶器を勃起させて、自分好みの女性ばかりを犯して洗脳する、そういう男をいつまでも泳がせておいたら、喘ぎ声の絶えない街に変わり果ててしまう。
そうやって花織の表情から光が消えかけた時、優子からメールの返信があった。
『わたしなら大丈夫、心配しないで』
しかし当たり障りのない返事に優子らしさがない事に疑問が湧く。
もう一度メールを送信する。
『植原咲さんを見つけたのは優子なの?』
こんなやりとりに意味があるのだろうか。
電話をすれば済むことなのに、何パーセントかのネガティブ思考がそうさせない。
そうしているうちに、花織の携帯電話の画面にメール着信のアイコンがあらわれた。
優子からだ。
『わたしが見つけたのは魔女だよ。じつはわたしも魔女なの、意味わかる?花織ならわかるよね、だって花織も』
その後が続いていなかったが、花織はすべてを理解していた。
友情が冷めていく感じではなく、子供のいたずらを親に見つかったような淡い胸の痛みだ。
そしてこのメールは怪しい。
『あなた、優子じゃないわね?いったい誰なの?どこに行けば彼女に会えるの?』
花織はなけなしの勇気にまかせて核心に迫るメールを送る。
数分の沈黙の後、返信が来た。
『わたしに会いたかったら、今夜22時にキャンパスのファミリアホールに来て。花織ひとりで』
なにか怖ろしい事が起きる予感と、淫らな犯罪の匂いが花織を包み込んでいた。
従うべきか、思いとどまるべきか、とにかく小田くんや黒城くんには告げ口できないや、とにわかに表情を曇らせて、ひとつの決断をした。
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