12 冷徹な引導
日曜日の20時。
翌日からの仕事や学校に備えて、本来なら穏やかに過ぎていくはずの夜、我が家のリビングはかつてないほどの冷気に支配されていた。
昨夜、愛人の元に泊まって先ほど帰宅したばかりの父が、どこか落ち着かない様子でソファに深く腰掛けた。
「……で、話ってなんだよ。佑馬まで座らせて、大げさだろ」
アリバイ作りのためのゴルフウェアを着た父の表情には、外泊の後ろめたさを隠そうとするような、空元気の苛立ちが滲んでいる。
テーブルを挟んで向かい合う母は、背筋をピンと伸ばし、凛とした佇まいで父を射抜いていた。その瞳には、数時間前まで俺に向けられた熱い情愛のかけらもなく、ただ確固たる決意だけが宿っている。
「単刀直入に言うわね。あなた、外に女の人がいるわよね。しかもこれが最初じゃないはずよ。
私と離婚して、この家から出ていってほしいの」
母の静かな、けれど拒絶を許さない声がリビングに響く。
「……は? 離婚? おい、いきなり何を言ってるんだ、お前は···? 佑馬の前だぞ!」
父が慌てて俺の方を振り返る。その目は、俺を盾にして、なんとかその場を逃れようとする、情けない光が宿っていた。
「佑馬にはもう話してあるわ。私の決意も伝えたし、賛成もしてもらっている。これからは、私と佑馬の2人で生きていくことに決めたの」
母が迷いのない口調で告げると、父は顔を引きつらせて俺を見る。
「賛成って……佑馬! お前、ママに何を吹き込まれたんだ? 由佳、お前もだ! 冗談はやめろよ。
不倫だなんだって、俺がそんなことするわけないだろ。仕事が忙しいだけだ」
必死にとぼけ、父親としての体裁を取り繕おうとするその姿は、あまりに滑稽で、哀れですらあった。
「冗談なのは、あなたのその言い訳の方よ。
ここ2、3年、あなたが約束通りのお金を入れず、特定の女性に貢いでいることは、以前から分かっているの」
母の声は、冷静そのものだった。
「何のことだ!? 会社の業績が悪化して給料が下がったって言っただろ。
その割には、部下や仕事関係の付き合いだってあるし、俺だって家族のために必死に……」
「言い訳はいいわ。外で誰と会っているのか。必要ならば専門の方に頼んで証拠を集めましょうか?」
父の顔から血の気が引き、泳ぐ視線が俺のところで止まる。
「佑馬… お前、本当にいいのか? こんな、母親の勝手な……」
俺は父の言葉を遮るように、静かに、けれどはっきりと首を振った。
「勝手なのは、父さんの方だろ。俺は、100%ママの味方だよ」
俺の言葉に、母が小さく頷く。
夫婦として、家族として、3人が今後もこのリビングに居る必要性は、もう1ミリもなかった。
「……っ、話にならん! お前たち、少し頭を冷やせ!」
図星を突かれ、反論の言葉を失った父は、吐き捨てるようにそう言い放ち、俺や母と視線を合わせることもできず、逃げるように席を立つ。
父はそのまま乱暴に玄関のドアを開けると、そのまま外に出て行った。
嵐が去った後のような静寂の中で、母は深くため息をつき、ソファの背もたれに体を預けた。
「……情けないわね」
その呟きは、怒りよりも呆れを含んでいた。俺は母の傍に寄り、その細い肩をそっと抱き寄せる。母は俺の体温を確かめるように、自身の肩に置かれた俺の手に自分の手を重ねた。
それから、2時間近くが経過した。
玄関の鍵が開く音がして、力のない足取りで父が戻ってきた。父は、リビングを入ったところで、立ったまま口を開く。
「……由佳 佑馬。さっきは、すまなかった」
リビングに入ってきた父の顔には、先ほどの勢いは微塵もなかった。肩を落とし、すがるような目で母を見ている。
「…悪かった、認めるよ。確かに女性はいる。でも、聞いてくれ。あれは… あっちからそそのかされたんだ。
最初は俺も断ったんだが、彼女がどうしてもって……。本当に魔が差しただけなんだ。」
50を目前にした男が、自分の不貞を『相手の女のせい』にして、息子と妻の前で哀れな言い逃れをはじめている。
母と隣り合わせでその言葉を聞きながら、俺は猛烈な嫌悪感を覚えた。
母は、父の惨めな独り言を、表情を変えずに黙って聞いている。
「……そそのかされた? それが、何年も家庭を疎かにしていた理由になると、本気で思っているの?」
母の低い声が、父のみっともない謝罪をあっさりと切り捨てた。
「修三さん。今の言葉で、私、確信したわ。あなたには、父親としても、夫としても、もう何も期待できないことを···。
あなたがそこまで言うのなら、相手の女性にも慰謝料を請求しましょうか?」
言葉を失った父が、肩を落として床に視線を送った。
父はそのまましばらく黙っていたが、やがてフンと鼻で笑うと、リビングの壁にだらしなく寄りかかった。先ほどまでの弱気な様子は影をひそめ、開き直ったような、醜い表情に変わる。
「……ああ、わかったよ。認めるよ。外に女はいるさ」
父は開き直ったように、ポケットからタバコを取り出そうとして止めた。
「離婚? ふたりとも世間体ってものを考えろよ。俺がここを出ていって困るのはお前たちだろ。いったい近所や親戚にどう説明するんだ?
佑馬だって、父親が不倫で家を追い出されたなんて知られたら、就職にだって影響するんじゃないのか??」
父は「これが現実だ」と言わんばかりの冷笑を浮かべ、勝ち誇ったようにソファーに座っている俺たちを見下ろした。
母も俺も、あきれ果てて言葉が出なかった。
「それにだ、由佳···。お前にも原因はあるんじゃないのか? 家に帰ってきても『仕事ができる女』の顔をして、俺を下に見て…
男ってのはな、もっと、優しくて、しおらしい女に癒やされたいもんなんだよ。
俺をそんな風にさせたのは、お前のその可愛げのなさだろ」
自分の不貞を、あろうことか母のせいにする、その呆れた言いぐさに、俺の中の怒りが、一気に臨界点を超えた。
あれだけ家族のことを考え、これほどに優しい母を侮辱されたことが、俺にはどうしても許せなかった。
俺は、ソファの隣に座る母の肩を引き寄せた。そして、唖然とする父の目の前で、彼女の細い腰を強く抱きしめる。
「…っ、佑馬? お前、何を……??」
父の言葉を遮るように、俺は母の唇を奪った。
それは単なる挨拶のようなものではない。父に見せつけるように、深く、執拗に、彼女が俺の「オンナ」であることを明らかにするためのキスだった。
母は一瞬、驚いて目を見開いたが、吐息を漏らしながら俺の思いを受け入れた。
唇を離したあと、俺は片手で母の肩を抱いたまま、残る片手で母の顎を持ち上げ、一度、しっかりと視線を合わせた。
『もう・・ こうやって思い知らせるしかないよ···』
そういう思いを込めて、俺は母の瞳を覗き込む。
その上で、再び、俺は母と唇を重ねる。今度は、父に、はっきりと分るように、母の口内に舌を挿し込んだ。
母も俺の意図を理解し、覚悟を決めたように俺の首に腕を回して、激しく俺と舌を絡ませた。
いつも俺たちがしている、オスとメスの激しいキスがしばらく続く。
「んんんん......」
母がいつものように呻き声を上げはじめた頃、俺はようやく母を解放し、リビングの壁際で凍りついたように固まっている父を、冷ややかに見た。
「これで分かった? 俺たちがずっと二人で生きていくと言ってる意味が···?」
俺の低い声が、静まり返ったリビングに響く。
「ママも、あんたや相手の女性に慰謝料を請求するつもりはないって言ってくれてるんだし···
だから、もう諦めて出ていったら? ここにはもう、あんたの居場所なんてどこにもないんだよ!」
母もまた、俺の腕の中で少し乱れた息を整えながら、凛とした、けれどどこか残酷なまでの微笑を父に向けた。
「……聞いた通りよ、修三さん。これが、私たちの答え。これ以上、無様な姿を晒さないでちょうだい」
父は金魚のように口をパクつかせ、目の前で起きていることと、妻と息子の決意表明を聞いて、言葉を失って立ち尽くしていた。
「お前たち・・! 自分たちが、いったい何をしているのか、わかっているのか!?」
父がようやく口を開いた。しかしその声は完全にかすれ、裏返っていた。
「だって、あんただって、外の女と、こういうことをしているんだろ?」
そう言うと俺は、またも母の唇を奪いながら、母の豊かな胸に手を這わせる。
「あん··· あなた・・ いくら何でも・ それはやり過ぎよ...」
母は、恥ずかしそうに、そう言いながらも、自分の胸に伸びてきた息子の手を、まったく引き剥がそうとはしなかった。
「狂ってる・・ お前ら完全に狂ってる!!」
父はそう言うと、数分前に入ってきたばかりの玄関から、ものすごい勢いで飛び出して行った。
父の車のエンジン音が遠ざかる。
リビングに残されたのは、俺と、俺の腕の中で小さく肩を震わせる母の二人だけだった。
「……終わったわね。すべて」
安堵した母が、かすれ気味の声で呟く。俺は何も言わず、ただ力強く彼女を抱きしめ直した。
窓の外では、深夜の静かな街灯だけが灯っている。
誰にも邪魔されない未来。
俺たちの「新しい人生」は、このリビングから、静かに、けれど確実に動き始めた。
「さぁ 私たちの部屋に行きましょう......」
母の声と表情は、ゾクゾクするほどの艶っぽさに包まれていた。
※元投稿はこちら >>