レッスン3 歩き方の授業
「今日は歩き方だ」
翌朝、北浦和の駅前で私は言った。
綾乃は昨日買った靴の箱を抱えている。
「歩き方?」
「ファッションの最後の仕上げだ。服も靴も、結局は“どう歩くか”で決まる」
京浜東北線に乗る。
朝の車内は通勤客で混んでいた。
綾乃は窓の外を見ながら言った。
「今日はどこ行くの」
「東京コレクションだ」
「テレビで見るやつ?」
「そう。代々木体育館」
大宮方面からの列車は、都心へ向かうにつれて人が増える。
赤羽を過ぎ、王子を過ぎ、田端で降りた。
「ここで山手線に乗り換える」
ホームを移動し、緑色の電車に乗る。
数分で原宿に着いた。
駅を出ると、若者の街の空気が一気に広がる。
派手な服、奇抜な髪、色とりどりの人たち。
代々木体育館まで歩くと、人だかりができていた。
「やっぱり無理か」
入口の係員が言う。
「本日のショーは満席です。チケットをお持ちの方のみ入場できます」
綾乃が肩をすくめた。
「残念でした先生」
「仕方ない」
私は体育館を見上げた。
「あの中では、モデルがランウェイを歩いている」
「ランウェイ」
「服を見せるための道だ」
綾乃は少し考えてから言った。
「でも歩くだけでしょ?」
「そう思うか」
私は笑った。
「じゃあ別の場所に行こう」
原宿駅に戻り、今度は地下鉄を乗り継ぐ。
街の雰囲気は、さっきとはまるで違う方向へ向かっていく。
やがて着いたのは、千束四丁目。
綾乃は周りを見回した。
「ここ……」
通りには独特の看板が並んでいる。
昼間のせいか、静かな街だ。
「昔からの歓楽街だ」
私は歩きながら言った。
「戦後すぐまで、日本では売春は合法だった」
綾乃は黙って聞いている。
「もっと昔、江戸時代には遊郭という場所があった」
「テレビで見たことある」
「そこでは女性たちが働いていた。悲しい事情の人も多かったが、その中には“太夫”と呼ばれる特別な女性もいた」
「太夫?」
「芸や教養を身につけた、いわばスターだ」
綾乃は少し驚いた顔をした。
「へえ」
私はゆっくり歩いた。
「太夫は街を歩くとき、“道中”という儀式のような行列をする」
「パレードみたいな?」
「そうだ」
私は立ち止まった。
「歩き方が普通じゃない」
「どう違うの」
「ゆっくり、堂々と、足を運ぶ」
私は地面を指した。
「足を外へ開き、少し間を置いて次の一歩を出す」
綾乃は試しに歩いてみた。
ぎこちない。
「難しい」
「だろう」
私は言った。
「でも面白いことがある」
「なに」
「東京コレクションのモデルも、普通の歩き方はしない」
綾乃は目を細めた。
「そうなの?」
「ランウェイの歩き方は、わざと感情を消して、一定のリズムで歩く」
私は続けた。
「太夫道中も、ランウェイも同じだ」
「同じ?」
「人に“見せるための歩き方”だ」
通りの向こうから、昼の光が差していた。
綾乃はもう一度歩いた。
昨日買ったヒールを履いている。
カツ、カツ、と小さな音がする。
さっきより少し姿勢が良くなっている。
「……なんか恥ずかしい」
「人は見られると変わる」
「そうかも」
私は笑った。
「ファッションは服だけじゃない」
「うん」
「靴、姿勢、歩き方」
綾乃は通りの先を見た。
「全部そろって、初めて“スタイル”になる」
少し沈黙があった。
やがて綾乃が言った。
「先生」
「なんだ」
「昨日より面白い」
私は頷いた。
遠くで車が通り過ぎる音がした。
「次の授業はもっと簡単だ」
「何?」
「人の視線の読み方だ」
綾乃は笑った。
「まだ続くんだ」
「当然だ」
女性の歩き方一つで、街の景色は変わる。
それは昔の遊郭でも、
ファッションショーの舞台でも、
そして――
今、この静かな通りでも同じだった。
※元投稿はこちら >>