レッスン2 実習・銀座の靴
「今日は実習だ」
北浦和の小さな家の玄関で、私はそう言った。
綾乃は壁にもたれてスマートフォンをいじっていた。金髪に近い明るい髪、だらしなく着たパーカー、短いスカート。昨夜と同じ格好だ。
「実習?」
「そうだ。服装が人の視線をどう集めるか、実際に試す」
綾乃は面倒くさそうに顔を上げた。
「どこ行くの」
「銀座」
「え、マジ?」
「まず浦和まで出る。そこから京浜東北線だ」
電車に乗ると、綾乃は窓の外を眺めていた。
休日の昼前、車内には買い物客や学生が混じっている。
「オッサンさ」
「先生だ」
「はいはい先生。なんで銀座なの」
「理由は簡単だ。人が服を“真剣に”見る街だからだ」
上野を過ぎ、東京に近づくにつれて乗客の雰囲気が変わっていく。
服装が少し整い、姿勢がどこか落ち着いている。
有楽町で降りると、冬の光がビルの壁に反射していた。
銀座の街はいつ来ても、どこか舞台のようだ。
「こっちだ」
七丁目の通りを歩く。
ショーウインドウには、まるで彫刻のような靴が並んでいた。
綾乃が足を止めた。
「……ここ?」
赤いロゴの看板。
店内は静かで、床まで光っている。
「そう。ここで靴を買う」
「場違いじゃない?」
「ファッションの勉強に場違いはない」
店員に案内され、綾乃は椅子に座った。
差し出されたのは細いヒールの靴だった。
「これはKATEという型だ」
綾乃は靴を手に取った。
「細っ……」
「履いてみろ」
ストッキング越しの足に、靴が滑り込む。
立ち上がった瞬間、彼女の姿勢が変わった。
背筋が伸び、腰の位置が上がる。
「歩いてみろ」
店内の鏡の前を数歩歩く。
カツ、カツ。
ヒールの音が床に響く。
綾乃は鏡を見て、少し驚いた顔をした。
「……なんか、違う」
「それが靴の力だ」
「姿勢が変わるだろう」
彼女はもう一度歩いた。
歩き方が、さっきよりゆっくりになっている。
「人は歩き方を見る。靴はその歩き方を作る」
店を出たころ、綾乃は箱を抱えていた。
「次だ」
晴海通りを南へ歩く。
銀座ライオンの前を通り過ぎ、東銀座駅の近くまで来る。
「昔、この辺にパンストの専門店があった」
「へえ」
「ピンクティクラブという店だ。イタリア製ばかり置いていた」
綾乃はきょろきょろと辺りを見回した。
「でもないじゃん」
「時代は変わる」
私は肩をすくめた。
「仕方ない。三越へ行こう」
日本橋の三越は、銀座とはまた違う重みがある。
店内は静かで、天井が高い。
ストッキング売り場で店員がパッケージを並べた。
「イビチというブランドだ」
綾乃は包みを開け、布を指で伸ばした。
「薄いね」
「脚の線を綺麗に見せるためだ」
彼女は少し考えてから言った。
「オッサン……じゃなくて先生」
「なんだ」
「ファッションってさ」
「うん」
「結局、見られるためにあるの?」
私は少し考えた。
「半分はそうだ」
「半分?」
「もう半分は、自分が変わるためだ」
綾乃は箱を閉じた。
「さっき靴履いたとき、姿勢変わっただろ」
「……うん」
「服は人間を作る」
三越を出たころには、空は少し曇っていた。
「次は?」
綾乃が聞く。
「秋葉原だ」
「なんで」
「服装の実験だ」
山手線で二駅。
秋葉原の駅前は、銀座とはまるで違う熱気だった。
看板、ネオン、人の波。
「ここだ」
雑居ビルの前で私は立ち止まった。
エムズ。
綾乃は看板を見て笑った。
「怪しい店」
「研究には幅が必要だ」
店内には、さまざまな衣装が並んでいた。
制服、ドレス、奇抜な服。
綾乃は一着を手に取った。
「これ着たら、目立つね」
「だろう」
彼女は少し考えてから言った。
「でもさ」
「うん」
「今日わかった」
「何が」
綾乃は笑った。
「服って、ただ着るだけじゃないんだね」
私は頷いた。
銀座のヒール、薄いストッキング、そして派手な衣装。
全部、同じことを教えている。
人は、見ている。
そして――
見られることで、少しだけ別の自分になる。
「次の実習は歩き方だな」
「まだ続くの?」
「もちろんだ」
秋葉原の雑踏の中で、綾乃は少し楽しそうに笑った。
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