レッスン6 魅力というもの
「今日で最後の授業だ」
別所沼公園のベンチに座りながら、私は言った。
春の風が少し強い。
綾乃は隣で靴の先を見ている。
あの銀座で買ったヒールだ。
「テーマは何?」
「魅力だ」
綾乃は笑った。
「また難しい」
「いや、むしろ簡単だ」
私は池の水面を見ながら言った。
「体験というものは不思議なものでな」
「体験?」
「してしまうと価値が下がることがある」
綾乃は少し考えた。
「例えば?」
「結婚だ」
綾乃は吹き出した。
「先生それ怒られるよ」
「現実の話だ」
私は肩をすくめた。
「結婚して何十年も、毎日同じ気持ちでいられる夫婦がどれだけいる。いつまでもセックスが楽しい夫婦がどれだけいる。」
綾乃は黙った。
「もちろん仲のいい夫婦もいる。でも多くは日常になる」
「日常か」
「そう。慣れる」
私は続けた。
「でもな、価値が消えるわけじゃない」
「じゃあどこに残るの」
「記憶だ」
川面に光が揺れている。
「体験は終わる。でも記憶は残る」
綾乃は小さく頷いた。
「だから人は思い出を大事にする」
「なるほどね」
私は少し間を置いて言った。
「もう一つある」
「なに」
「未知だ」
綾乃は首をかしげた。
「未知?」
「まだ知らないもの」
私は言った。
「人は、知らないものに価値を感じる。仲の良い夫婦はいろんなセックスをしている」
綾乃は笑った。
「変態みたい」
「そうだ」
私は綾乃を見た。
「若いというのは、それだけで価値がある」
「え」
「可能性があるからだ」
風が吹いた。
綾乃の髪が少し揺れる。
「綾乃は何にでもなれる」
綾乃は黙っている。
「まだ決まっていない」
「そんな大げさな」
「大げさじゃない」
私は言った。
「未知であることは価値なんだ」
綾乃は足元の小石を蹴った。
「先生さ」
「うん」
「処女性ってどう思う」
私は少し笑った。
「昔から価値があると言われてきたな、でも綾乃は処女じゃないよな」
「だよね」
「でもそんなのは象徴だ」
「象徴?」
「まだ誰も知らない、という意味だ」
綾乃は静かに聞いている。
私は続けた。
「でも本当はな」
「うん」
「人間は何度でも未知になれる」
綾乃は眉を上げた。
「どういうこと?」
「新しいことをやればいい」
私は笑った。
「旅行でも、仕事でも、趣味でも、セックスでも」
「なんでも?」
「なんでもだ、どんなことでもだ」
遊歩道の向こうで犬が吠えた。
「人生は長い」
私は言った。
いろんなことをやってみる」
綾乃は少し笑った。
「先生、変なことでも?」
「変わったことでもな」
「例えば?近親相姦とか」
私は肩をすくめた。
「世の中にはいろんな人がいる」
綾乃は立ち上がった。
「まあいいや」
「どうした」
「今日の授業、結構面白かった」
私は笑った。
「それは良かった」
綾乃は沼の方を見た。
「でもさ」
「うん」
「結局、魅力って何なの?」
私は少し考えた。
そして言った。
「可能性だ」
綾乃は振り向いた。
「可能性?」
「まだ何者でもないこと」
風がまた吹いた。
「人は完成すると安心する」
「うん」
「でも未完成な人には、未来がある」
綾乃はしばらく黙っていた。
やがて言った。
「先生」
「なんだ」
「じゃああたし」
「うん」
「まだ価値あるじゃん」
私は笑った。
「もちろんだ」
川の流れはゆっくり続いている。
授業は終わった。
でも――
人生の授業は、まだこれからだった。
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